サンテックスの出撃回数

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オルコント赴任から敗走まで (II/33 部隊)

月 日作戦番号機 種
機体番号
偵察目標/ルート    備   考    
1939.11.03
サンテックス、オルコント(シャンパーニュ地方)へ赴任
1940.03.18Bloch 174A3
Nº 16, 18, 21
Marignane - Orconte 3機輸送。(うち18号機をサンテックスが操縦)GR II/33,
Bloch 174(以下すべて Bloch 174.01A.3)初配属
1940.03.2943Bloch 174
Nº 18
写真偵察。機体各部凍結のため作戦中止。GR II/33, 3º Escadrille
飛行時間;1hr25min, 高度; 9000 メートル
1940.03.3145 MV18Bloch 174
Nº 22
Rotgen - Reinburg - Dusseldorf - CologneGR II/33, 3º Escadrille
飛行時間;2hr00min, 高度;8500 メートル
1940.04.0147 MV19Bloch 174
Nº 21
写真偵察。Duren - Dorn - Denath - Valée du RhinGR II/33, 3º Escadrille
高度;9000 メートル, ライン川に船橋を発見
1940.04.30 Bloch 174
Nº 48
 GR I/33, 2º Escadrille( I/33 は爆撃部隊。本来 Bloch 174 は爆撃機)所属の機体。Orléans への飛行の帰途、Athiès-sous-Loan までをサンテックスが操縦。
1940.05.10
ドイツ軍、ベネルックスへ侵攻(座り込み戦争が終わり独仏戦闘が始まる)
1940.05.23121v29Bloch 174
Nº 24
写真偵察。15H00 Orly-Meaux - Compiegne - Rosieres en Santerre - Bray sur Somme - Albert - Arras - Douai - Orly 16H15GR II/33, 3º Escadrille
高度;200-300メートル以下。戦闘機から逃れるため雲中に逃げ込む。
1940.05.27138Bloch 174
Nº 34
エンジン不調。引き返す。GR II/33, 4º Escadrille
飛行時間;0hr35min, 高度;500 メートル
1940.05.29な しBloch 174
不 明
写真偵察。通信機器不調で作戦命令を取り消す。GR II/33, 4º Escadrille
高度;不明
1940.05.31157 MV35Bloch 174
Nº 22
写真偵察。17H10 Orly - Tergnier - Peronne - Amiens - Abbeville - Orly 19H30GR II/33, 3º Escadrille
高度;9600 メートル
1940.06.06188 v48Bloch 174
Nº 53
写真偵察。10H55 Nangis - Soissons - Laon - Vervins - Hirson - Le Chateau - Cambrai - Peronne - Roye - Montdidier - Nangis 13H30 GR II/33,
高度;10000 メートル
1940.06.09208 v54Bloch 174
Nº 53
目視偵察。12H45 Nangis - Chateau Thierry - Soissons - La Fere - Saint Quentin - Guise - La Capelle - Vervins - Laon - Reins - Nagis 14H45GR II/33, 3º Escadrille
高度;9300 メートル
1940.06.22な しFarmanサンテックス大尉、Bordeaux-Mérignac 飛行場で放棄された Farman(4発機)を発見。5時間飛行して「彼の動物園 ménagerie;敗残兵なのか、「ガラクタ機材」なのか不明】」を Oran( Quahran:アルジェリア西北部)飛行場へ運んだ。
その後更に、Alger Maison-Blanche まで操縦。
 
GR II/33 アルジェへ敗走。【書類上は6月20日北アフリカへ移駐】
1940.07.20アフリカ
10
Bloch 174
Nº 9
アルジェリア海岸偵察。サンテックス8度目(最後)の作戦行動。GR 2/33, 2º Escadrille
飛行時間;1hr30min, 高度;1800 メートル
1940.07.27な しBloch 174
Nº 24
下命なし【勝手に上がった?】  僅か10分で着陸。GR 2/33, 1º Escadrille
飛行時間;0hr10min

 彼の作品「Pilote de Guerre」の記述は、彼の実体験とはかなり異なり、(他人の飛行も含めて)当該飛行以外の内容をミックスしていることが指摘されています。【たとえば、Patric Ehrhardt, Le Chevaliers de l’Ombre, pp.343 - 344, 1994】

II/33 部隊の損耗率について

 II/33 偵察飛行中隊の損耗率については調査中ですが、正確なことはよく判りません。特に、人的損耗は、どの時点でどのような陣容であったかが、はっきりしないのです。
 
 使用機について
 新鋭偵察機(Marcel Bloch 社製)MB.174 は全部で56機生産され、1940年5月半ばまでに、II/33 部隊の主力機種として置換配備されました。その後(4月から)、I/33, I/52, II/36 部隊にも配備されています。
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【下表は Patric Ehrhardt, Le Chevaliers de l’Ombre, 1994。参考資料 pp. 1691 - 1692 による、GR II/33 および GR 2/33 への Bloch 174/175(特記なければ 174)配備。】
領収年月日 機体番号備 考    喪 失 ・ 抹 消    
40.03.1816  Marignane から輸送。40.04.16 未帰還
40.03.1818  Marignane から輸送。サンテックスが操縦。40.04.30 出発時に火災
40.03.1821  Marignane から輸送。GR II/33 第3小隊〔42.11.10 Tunis 基地で爆撃により喪失〕
  時代変遷を考えると、フランス空軍の編成名を日本語化するにはいろいろな難点がある。ここでは escadrille を、便宜的に「小隊」と訳した。(以下「小隊」に関しては同じ)】
    日本語訳例1  
Flotte aérienne;航空兵団  
escadre;飛行連隊  
escadron;飛行戦隊  
escadrille;飛行中隊
    
   日本語訳例2  
escadre;連隊    
groupe;集団/群  
escadron;中隊  
escadrille;小隊
 【偵察機は単機行動が原則で編隊を組むことはないから、「小隊」は存在しない。すなわち、偵察飛行隊に関する限り、例1が実態に即している。〔訳例1を採用すれば、他機種の「小隊」にあたる escadrille の下の要素は、patrouille(戦闘機小隊), section(爆撃機小隊)である〕。"escadrille" が数機にとどまるのであれば、例2のように「小隊」と訳しても大きな齟齬は来さないと考えられる。尚、連隊と中隊の中間に位置する「大隊」は bataillon である(空軍には、連隊と大隊はどちらか一方であるのが普通)。】
40.04.2843  GR II/33 第4小隊 (43.09.19 退役)
40.04.2846  GR II/33 第4小隊
40.04.2847  GR II/33 第3小隊
40.05.1422  Marignane から輸送。GR II/33 第4小隊 〔AFN へ移管後、42.05.18、Sebkha 上空で衝突喪失〕
40.05.1424  Marignane から輸送。GR II/33 第3小隊 〔42.11.21 エンジン故障廃棄〕
 1940年「夏」【書類上は6月17日】(Vichy 政権【成立:6月22日】下の)GR I/33 が解散されると、GR II/33 の第3・第4小隊は、同 第1・第2小隊に名が変わった。以下の小隊名はそれにしたがって読み替える必要があると思われる。
【尚、GR II/33 は、フランス解放後 GR 2/33 "Savoie" に再度改名する】
40.05.169  GR II/33 第2小隊(42.11.08 抹消)
40.05.1902  初めは I/36 部隊に。その後 II/33 部隊所属。40.05.22 Orly 空港離陸事故。
40.05.1939  GR II/33
40.05.1952  GR II/33
40.05.2225  GR II/33 第2小隊(43.09.20 退役)
40.05.2234  GR II/33
40.05.2253  GR II/33(43.09.17 退役)
40.05.2254  GR II/33
40.06.2149  I/33 から AFN へ移管。40.08.xx に GR II/33 へ。(42.11.16 火災)
40.07.2301  GR II/33 第1小隊(Bloch 175 A3(43.09.19 退役)
40.07.23122  GR II/33 第2小隊(Bloch 175 A3
40.08.081  GR II/33 第2小隊
40.08.0823  Séif から Alger へ輸送。GR II/33 第1小隊(GR 2/33)(43.09.20 退役)
40.08.2156  GR II/33 第1小隊(Alger で事故・放棄)
40.08.xx14  Casa Blanca から Alger へ輸送。GR II/33 第1小隊〔43.05.01 Laghouat 基地で離陸の際に事故〕
40.08.xx20  Séif から Alger へ輸送。GR II/33 第1小隊(43.09.30 退役)
40.08.xx28  GR II/33 第1小隊(43.05.11、GR 2/33 へ)(43.09.20 退役)
40.09.xx51  GR II/33(飛行不能で放棄)
42.11.0841  GR II/33 第1小隊(40.04.23 に GR I/33 所属。
 飛行不能の状態で Tunis にて GR II/33 へ移管。)
〔飛行不能で放棄。爆撃により喪失〕
ここまで GR II/33。以下は GR 2/33。
41.04.0155  GR 2/33 第2小隊(43.09.20 退役)
43.03.0833  GR 2/33 第1小隊(43.09.20 退役)
43.08.055  GR 2/33 第2小隊(43.09.20 退役)
43.08.0530  GR 2/33 第2小隊 (43.09.20 退役)
43.08.05109  GR 2/33 第2小隊(Bloch 175 A3(43.09.20 退役)
43.11.2138  GR 2/33 第1小隊(移管)
 1940年5月10日時点での G.R. II/33 (Athies-sous-Laon 駐留)の保有機:(http://france1940.free.fr/adla/ada_mai.html)
 Bloch 174    2(内 稼働機;1)
 Potez 637      7(6)
 Potez 63.11   6(5)
 1940年6月5日時点での G.R. II/33(Nagis 駐留)の保有機:(http://france1940.free.fr/adla/ada_juin.html)
 Bloch 174    10(内 稼働機;5)
 Potez 637      1(1)
 Potez 63.11   5(3)
 Potez 631      1(1)
 Bloch 174 の損耗率
 上記のように全生産数56機。そのうち、Battle of France で失われたのは僅か3機(4機という記述もあるが、3機が正しいらしい)に過ぎません。
 II/33 部隊の損耗率
 サンテックスはその著書「戦う操縦士」Pilote de Guerre 中で、フランス全土では50組の偵察クルー【ポテ, ブロック、共に3人一組。サンテックスが乗ったのはブロック 174】が存在し、「II/33 部隊には23組の偵察クルーがいた。そのうち17組を戦闘開始後3週間の内に失った」と述べています。
 この時期、II/33 部隊の主力機は Bloch 174 (「アラスへの飛行」が敢行される5月23日までに15機配備)なので、17ものクルーを失うという損失数は(Battle of France での損失僅か3機という)事実と符合しません(更に、3機の内には生存者もいます)。【II/33 部隊の稼働機数も、17損失に見合うほどあったかどうか . . . 。確かに、フランス空軍は5月までにその保有機の 3/4 を失っていますが、多くは地上で撃破されたもので、搭乗員の消耗はそんなに多くありません。】
 嘘つきトニオ
 サンテックスが書いた「作品」は、彼の実体験そのものではありません。「作品」中の数字をそのまま引用するのは調査能力欠如の誹りを免れないのです。

 「Pilote de Guerre」に限ったことではありません。「Terre des Hommes」も嘘が多く、彼の リビア砂漠での「遭難」も原因は彼の居眠りである可能性が小さくないと私は考えています。サンテックスの創作能力は決して高いとは言えず、多くは彼自身の実体験に素材を求めていますから、彼の「作品」に彼自身の体験が含まれていると考えがちですが、同時に、それは虚構に満ちた「作品」でしかないことを忘れてはなりません。「作品」ばかりではありません。新聞社特派員としての署名記事ですら、「嘘」・「脚色」があると断ぜざるを得ない内容なのです。彼が書いたことを元に、彼の行動を再構成することは避けなければなりません。


 ICARE 96号に記載されている表(および Patrick Erhardt 氏の著書)から抜粋・並び換えをしたものを下に示します。途中で引き返した3回が含まれています。命令を受け、滑走を開始して「脚が離れ」れば「出撃」ですから、これも出撃回数の内です。

地 中 海 戦 線 (2/33 部隊)

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月 日機体番号*
機 種
出 発 地
偵 察 目 標
高度**
滞空時間
備 考
1943.07.2141-2365
F4A
Tunis
フランス南部
10 km
5hr50
マルセイユとトゥーロンを撮影。勝手に足を伸ばしてアゲイ上空を通り、撮影までしたとされる。
1943.08.0142-13072
F5A
Tunis
フランス南部
2 km
0hr15
エンジン不調により引き返す。車輪接地後、ブレーキ作動を忘れたための滑走路端オーバーランによる機体大破(使用不能・廃棄)【私は完熟訓練中の事故と判断しておりました。この機体番号も、43年8月1日に喪失した機体の記録も、見あたらないからです。しかし、出撃命令が出て離陸したらしいことが判りました(サンテックスが遂行できなかった作戦目的補充のため、Djidjeli [ Djidjédi と綴ることも ] 基地で機体番号 012 の F-5A を整備してバックアップ当番待機であった Deramaux 中尉が 4hr45min の南フランス地図作成飛行を行った。ただし、エンジントラブルのため目的完遂はできず、翌日・翌々日の補充作戦に繋がる)。従って、(わずか15分の滞空時間に過ぎませんが)サンテックスの出撃回数を11回に訂正しました。】
1943.08.128月1日の着陸失敗事故のため飛行停止(事実上の除隊) 処分。【これ以前にも事故・違犯が多数あり(上空9000メートルの高度で天蓋を開け [ ?! P-38 型の天蓋は上後方への跳ね上げ式。飛行中に開けたら、風圧でヒンジを引きちぎって飛んでしまい、最悪の場合、尾翼を壊して墜落にいたる。たとえ天蓋が飛ばなくとも、閉め直すことは不可能 ]、酸素マスクを紛失したりした。罪状に7月21日アゲー撮影が入っていたとの説もある)、それが積もり積もった上の決定的事故。遂に庇いきれない状態に達した。】
10箇月に及ぶ(10箇月で済んだ)飛行停止処分。
1944.06.0642-13126
F5A
Alghero
Marseille
10 km
1hr00
エンジントラブル(左エンジン出火)で引き返す (片肺飛行については、下欄 1944.06.29 参照)。【ノルマンディ上陸作戦決行日】
 悪天候のため偵察作戦順延。
1944.06.1442-68223
F5B
Alghero
南西フランス Rodez 地区
10 km
4hr00
 
1944.06.1542-68273
F5B
Alghero
南西フランス Toulouse
6 km
0hr25
酸素マスクトラブルで引き返す
1944.06.2342-68273
F5B
Alghero
南フランス Avignon 地区
10 km
3hr50
敵戦闘機の迎撃を受ける
1944.06.2942-68292
F5B
Alghero
フランス南部
10 km
4hr15
飛行中にエンジントラブル。右エンジンだけの片肺飛行で帰投(Bastia に着陸。P38 型機のプロペラは、下記のように外回りで、左右どちらもクリティカルエンジン。片肺飛行は難物中の難物であるにも拘わらず、必死になれば片肺着陸する能力があることを示した)。トリノ(なぜトリノ上空にいたのかは謎# というよりは、例によって、勝手にイタリア散歩を楽しんでいたと思われる【どこでエンジン不調になったかは不明だが、いかにサンテックスでも、エンジン不調の機体でイタリアまで道草を喰いに行くとは思われない。エンジン変調は帰路の海上か、せいぜいイタリア上空の筈。トリノ〜バスティア間は約 300 km、片肺でも1時間あればたどり着ける。残りの滞空時間はどこで何をしていたのか?】)からジェノバまでスイッチの切り忘れでカメラ作動のまま。そのため、重要なナチスの基地を撮影する大手柄。性懲りもなく、また勝手にアゲイを撮影したこともバレてしまったが、手柄に免じて、勝手な行動は不問に付された。【P-38 型機の場合、左右のプロペラは逆回転(プロペラ上端を操縦席から見て、試作機は内回り、量産機は外回り。改悪というべきものだったが、変更理由は不明)して 、機体に対する横方向の影響をキャンセルしている。片肺飛行では、一方のプロペラトルクと偏流(および、停止側プロペラの空気抵抗がブレーキになる)の影響で機体軸線と進行方向がずれる。直線飛行ならば、画像から機体軸が、撮影地点を結んだ線から進行方向が推定でき、撮影がエンジントラブルの前か後かの判定は可能である。】
飛行制限回数「5回」を終了(ただし、中途帰還の短時間飛行2回が含まれる)
1944.07.1142-68219
F5B
Alghero
アルプス一帯
10 km
2hr50
 
1944.07.1442-64533##
F5
Alghero
Annecy
10 km
3hr00
機体は米軍所属
1944.07.16  決行が間近に迫っているドラグーン作戦について内容を知っている者を空中勤務から外すよう、上部組織から各部隊に対して念押しがあり、21日には、ルルー,アンリ両大尉に対して飛行禁止が言い渡された。サンッテクスも該当者に含まれていた【飛行回数5回の制限も疾うに過ぎ、事故も起こしている。登場者名簿に彼の名前は、既になかったろうと思われる】が、彼は頑強に反抗し、隊長ガヴォワールの説得にも耳を貸さなかった。 
1944.07.1842-68292
F5B
Borgo
アルプス一帯
10 km
3hr20
 
1944.07.20  サンテックス、ボルゴ発、アルジェへ 【無許可? 少なくとも、公式の飛行記録には見当らない】。Bill Donovan (William Joseph Donovan) に会い、OSS (Office of Strategic Service, USA。CIA の前身。Maquis 支援・その他の作戦を行っていた) で雇ってくれるよう懇願(むろん受け入れられず)。07.26 ボルゴへ帰る。〔Roy C. Nesbit, The Last Days of Saint-Ex., Aeroplane:Vol.36 No. 2, 2008, p. 80〕 
1944.07.3142-68223###
F5B
Borgo
Annecy, Chambéry,
Grenoble
10 km
?
出撃 No.:33S176。帰投せず。
【搭乗当番ではないのに無理やり搭乗したのが実情と考えられる。】
2000年になって、(作戦目標へのルートを全く外れた)マルセイユ南方の地中海で乗機残骸の一部(左エンジンナセル)が見つかった。(海没したのはこの海域より深くはない筈なので)大まかな墜落海域は絞られたが、正確な墜落地点は不明。

**  F4, F5 のコックピットは気密構造(与圧式)ではありません。高度1万メートル(気圧;海面の 1/3 - 1/4,気温;−30 〜 −70℃)を酸素マスクと電熱線入り防寒服だけで長時間飛行するのはかなり無理があると思われます【単発機ならば、通常、コックピットの前にエンジンがあり、熱源として機能している。P-38 型にはそれがないので、高空では非常に寒かったと多くの操縦士達が回顧している】が、ICARE の記載をそのまま引用します。【また、P-38 型機の過給器性能は充分とは言えず、シリーズ前半の型では、高々度での速度制限がありました。一万メートルまで上がってくるドイツ軍戦闘機がなかったから問題にならなかったものの、「世界最速高高度戦闘機」は粉飾だったのです。】

# Patric Ehrhardt 氏に依れば、偵察目標はアルプス渓谷であったといいます。Annecy 上空で撮影を開始し、Chambéry を経て Grenoble まで偵察撮影を行いました。その後、左エンジンに激しい振動を起こし、停止せざるを得ない状態になったのです。ドイツ軍戦闘機の配置等を勘案し、モン・スニ峠を越えてイタリアのポー平原に進出、トリノ上空を経て地中海への脱出を図ったのだと言います。【Patric Ehrhardt, Le Chevaliers de l’Ombre, pp.550 - 551, 1994】 上記のように、フランス側の記述にはそのまま鵜呑みにするわけには行かない点が多々ありますから、どこまで本当かは留保の余地大ありです。また、上記の判断が妥当か否かは、検討する必要があります(アルプス山脈直上を南下するのが一番安全なはず)。

## ? この番号は North American B-25C-20 Mitchell

### 223 は 1994.05.24 に部隊に到着したばかりだが、7月31日には、飛行時間 100 時間以上に及んでいた。【Patrick Ehrhaldt, Saint-Exupéry : La mission inachevée., in Le Fana de l'Aviation : No. 297, 1994】 サンテックスが223に乗るのは二度目である。

乗機の呼称について

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