書 誌

新訳 Le Petit Prince

hair line

総 評

 歳を経た内藤訳は根をはびこらせ、茂った枝葉はこの星を覆い尽くして、もう手が付けられません。陽の陰った星を出て新しく誕生した小惑星を訪れ、今まで知らなかった世界を見て回ろうではありませんか。バオバブ二世が枝を伸ばしている星も中にはありますが、どれも新鮮な雰囲気が満ちていることに変わりありません。あなたが住みたいと思う星を、この中に見つけ出すことが出来るでしょうか。
 新訳比較:星巡り住人批判
     :運がいい?!
     :apprivoiser

縦組みは大チョンボ!

 あちこちで何度も指摘しているのですが、縦組みは話になりません。挿絵の配置と重要性がわかっていたら、絶対に縦組みにはならない筈です。「縦書きの方が読みやすい」と、したり顔でいう人がいます。確かに、肉筆での「書字」に関しては、漢字や仮名が縦書き用に作られていることは疑いありません。しかし、活字で組まれた文章の「読み」に関しては、話は一変します。
 三次元空間で生活する鳥や樹上性ほ乳類とは異なり、地上生活者であるヒトの視覚系は、解剖学的にも生理学的にも、上下(垂直)方向よりは左右(水平)方向への視線移動に適応しているのです。読み物の行が長くなったときに、次の行頭へ視線を移動させる正確さは、下→上方向で劣りが目立ち、それはそのまま読書疲れに直結します。また、縦組み・横組みにかかわらず、文字の大きさに比べて行が長くなったときは、二段組・三段組みにする必要が出てきます。最も重要なのは文字の大きさにあった行の間隔と長さであって、縦長の判形で小さな活字の縦組みは無理なのです。「縦書きの方が読みやすい」という主張は、慣れや個人的な趣味の域を出るものではありません。


「Le Petit Prince 星の王子さま,三野 博司 訳,論創社,RONSO fantasy collection 1,20cm B6 ハードカバー,142p.,2005年6月30日,¥1,050. -,ISBN 4-8460-0443-0 

 実際の一般発売は6月17日でした。同じ著者による解説書『「星の王子さま」の謎』が近日発売予定であると、帯や「あとがき」でアナウンスされています。翻訳を試れば痛感することですが、注釈抜きで Le Petit Prince を日本語化することは不可能です。したがって、巻末にかなりの分量の注釈をつけるか、いっそのこと、注釈・解説書をセットで発売するかの方策を講ずるべきであるというのは、誰でも考えることです。この本の場合は後者の戦略がとられました。それならば、同時に発売すべきでした。新訳競争に一番乗りしようと、片肺で離陸したのは失敗といって良いでしょう。本体の評価を下げる結果になってしまったからです。解説書とセットで発売されていれば、異なった評価になったであろうことを考えると、残念です。【⇒ 発売されました 。】

logo  縦書きにしたのは賛成できません。王子さまはどちらを向いてる?の項で述べたように、挿絵は読み手の視線の進行方向を考慮して描かれています。右開きの縦書きでは、キャラクターの向きと、読者の視線移動とがうまく合いません。この物語は、ぜひ横書き左開きで製本するべきです。「RONSO fantasy collection 1」とありますから、これから始まるシリーズで、横書きの判組シリーズにすることは出来たはずです。アラビア数字の扱い等、将来のことを考えれば日本語も横書きが主流になることは目に見えていますから、わざわざ縦書きのシリーズにしてしまったことは、失策といって良いでしょう。
 「校訂に信頼のおける」プレイヤード版を使ったのは、実害はありませんが、実情をよく理解できていません。ガリマール社は信用できません。挿絵問題はもちろんのこと、「43回」や「B2351」等、プレイヤード版も誤りをそのまま踏襲しました。(著作権法上やむを得ないかもしれませんが、本書も「 コッペパン 」つきの「火山のすす払い」挿絵を使っています)。サンテックス自身が校正したと推察され、北アフリカで何度も読み返した(したがって、誤りがあればレイナルヒチコック社に通告しているはず) R&H 版を底本とするべきです。
 「あとがき」で述べているように、使用する単語訳の一貫性や、繰り返し部分を忠実に再現することに気を遣っています。これは大いに評価すべきことです。訳語の選び方や言い回しも、直訳といって良い翻訳です。そのために叙情的な含みが少なくなり、日本語としての「こなれ」が不十分になりました。新訳ですから、当然のこと、読者は無意識のうちに内藤 濯 訳と比較します。内藤王子さまは、夜空に音叉の純音を響き渡らせるような、実に澄み切った余韻を残す情緒的名訳です。それに引き比べると、本書は「翻訳調」そのもので、内藤訳に遠く及びません。原典がもつ雰囲気を再現することにも失敗しています。多くの読者を獲得することは難しいだろうと思われます。
 前述の「あとがき」で述べられているようなことに意を用いた翻訳は、注釈書その他でも存在したことがありません。本書を注意深く読めば、日本語訳でありながら、原書の言葉遣いを正確に理解することが可能です。酷な言い方かもしれませんが、Le Petit Princce をテキストに使ってのフランス語やフランス文学の講義に副読本として使用するにはうってつけの本です。(ただし、完全に過不足なしの忠実な翻訳をしているわけではありません。たとえば、挿絵の説明「小惑星B612の王子さま」の原文は 「Le petit prince sur l'astéroïde B 612」です。)
 誤訳もあります。たとえば「イタチ皮の」「マント」は戴けません。マントという言葉は日本語化していますから、読者はごく限られた形態の衣装を想像してしまい、挿絵を眺めてそのイメージの齟齬に戸惑うことになります。"hermine" は「テン」または「オコジョ」ですが、この場合は挿絵に合わせて「白テン」とすべきです。イタチとは豪華さと品格が違うのです。hermine には「法衣の帯」という意味もあり、白テンの毛皮は「潔白」の象徴なのです。狡猾なイタチでは、意味が変わってしまいます。【皮革業界では「アーミン」と呼びます。高級毛皮に興味がある人ならば知っている言葉ですし、これから次第に多くの人に知られるようになるでしょうから、「アーミン」をそのまま使い、法衣のことと併せて注釈で説明するのがよいと、私は考えております。】


「Le Petit Prince  新訳 星の王子さま,倉橋 由美子 訳,宝島社,158 p., 20cm,2005年7月11日(6月25日東京の主要書店で発売開始),¥1,575.-,ISBN 4-7966-4695-7

 倉橋 由美子さんは2005年6月10日午前10時にお亡くなりになりました。享年69。「星の王子さま」の翻訳は5月に終えたばかりだったそうです。彼女の絶筆となってしまったこの作品は発売前から大きな期待を集め、ナンバーワンの注目度を誇っていました。
 初めて手にして、まず予想と異なったのが表紙の絵でした。「こんな読み方だって出来るんだよ」と訳してみせるのなら、新しい挿絵が採用されるだろうと思っていたからです。しかし、表紙にあったのは、あの「正装した王子」でした。
 読み始めてすぐに、その理由は納得できました。倉橋さんは、まじめに「翻訳」に取り組んだのです。「倉橋由美子だけの星の王子さま」への期待は、最初の1ページを終えるのを待たずに消えて行きました。

 残念ながら縦書きです。基本構想が予測と異なるとはいうものの、キリリと引き締まった文体はさすがというべきでしょう。3冊のなかでは一歩抜きん出ています。註釈を必要とする教科書ではなく、文学作品に仕上がっているのです。その点では、内藤濯訳の筆頭対抗馬でしょう。読後感もスッキリとしたものです。音読のリズムは一貫して、破綻を来しません。

 内容を抜きにしてまず後書きを勧めるというのもイカガナモノカとは思いますが、本書の一番優れている箇所は「あとがき」なので、買った人はぜひ「あとがき」を熟読して頂きたいと思います。
 「あとがき」最初の段落で、『これは本屋の児童書のコーナーにおかれて子供たちの圧倒的な人気を博する性質の本ではありません。』と述べ、更に『「私」が死を免れて現実の大人の世界に復帰することになったからには、この王子さまを何らかの形で「処分」するほかないのです。 . . . . . . . . . . . .  もう一人の自分を「処分」した「私」には透明な悲しみだけが残ります。この結末は小説としては過不足ない見事なものです。』と続き、最後の段落では『そんなわけで、この小説は、 . . . . . . 四十歳を過ぎた男が書いた、大人のための小説です。これを読んで大量の涙が出てくるというのはちょっと変わった読み方で、それよりも . . . . . . 』と、大半の星の王子さまファンの精神的な発育不全ぶりを斬って捨てます。(半分は内藤 濯さんの責任なのですが)
 「大人のために訳した」彼女の読み方は、キツネの言動を『これは、「自分を飼いならして愛人のような関係を結んで欲しい」ということです。』と指摘し、バラを見捨てて逃げ出す王子の行動を『 . . . . . あれあれ、これは男(もちろん大人)がよくやることではないかと気が付いて、 . . . . . 』というものです。(にもかかわらず、この「読み方」は本文中には姿を顕わにしません。徹底してこのラインで大胆に翻訳を進めて貰えたら、私の期待に近い「倉橋由美子だけの」作品になったであろうと惜しまれます。)

 生前のインタヴューで倉橋さんは「フランス語と英語とスペイン語で読み比べながら翻訳を進めています。」と語っています。これは感心できません。サンテックスが書いたのはフランス語だけで、他は別人が訳したものです。他人の訳を頼りにして翻訳を試みるのは邪道というものでしょう。フランス語だけから翻訳して欲しかったと、残念に思います。
 倉橋さんはフランス語はあまり得意ではなかったようです。こんな箇所があります。「私はピストルを取り出そうとポケットを探りながらあとずさりした。」毒蛇が彼に飛びかかろうとしているのならいざしらず、20 メートルも離れた場所からピストルを使って王子を助けようという場面ですから、全く腑に落ちない翻訳です。フランス語の辞書をいくら調べても、このような解釈は成り立たないので、手許のスペイン語版と英語版に当たってみました。スペイン語版(倉橋さんが誰の訳を参考にしたかは判りません)のこの箇所は“apreté el paso ;足を速める、駆け出す”で、フランス語と同じです。 Katherine Wodds さんが訳した英語版(他の英語版のチェックはしておりません)は“I made a running step back.”とあります。倉橋さんはなぜかこの案を採用したようです。文脈からいっておかしいのですが、倉橋さんはこの方がぴったりだと考えたのでしょう。

 「倉橋老いたり!」と思ったのは、『. . . . . . . . 頭にくるほど楽しそうに、大声で笑った。』という一文に行き会ったときです。40年前ならばとても良い訳です。しかし、今となっては「頭にくる」は滅びつつある言葉。若い人たちは使いません。50年後には死語になっているだろうと思われます。(「トサカに来る」という言葉もありました。ある人気俳優が流行らせようとして遂に受け入れられることなく消えていった言葉です。倉橋さんはこの言葉を知っている年代です。教訓として生かして欲しかったと思うのですが、逆に、「トサカに来るほど」などと訳さなかったことが救いでしょうか。)
 残念なことに、文脈上おかしな箇所が少なからずあります。『 バオバブ同様 、自分たちのことを大したものだと思っている。』のは、バオバブも自身のことをそう思っていることになってしまいます。『花に水をかけて、覆いガラスの下に入れると . . . . 』は、すぐ後に続く情景描写と矛盾します。少し高級な文脈としては、『 . . . . . 王子さまは長いこと夢見心地の様子だったが、. . . . . 』は、この情景の解釈に重大な影響があります。私は、この言葉の選択を支持しません。読み込み不足だと思います。

 倉橋さんらしくない日本語もあります。バラに向かって言う『誰も君たち . . . . . . 、きみたちも誰か仲良しにしたわけじゃない。』は、変な日本語です(仲人や恋のキューピッドなら話は別ですが)。ふつうは『 . . . . . . 仲良しになった/仲良くなった』でしょう。原文が他動詞であるのに引きずられて、自動詞であるべきものを他動詞に訳してしまいました。他動詞にこだわるのであれば、他の単語を探すべきでした。

 倉橋さんは体調が優れず、充分な見直しと校正の時間がなかったのではないかと思われます。

「Le Petit Prince  新訳 星の王子さま,倉橋 由美子 訳,宝島社文庫,165 p., 15cm,2006年6月14日,¥499.-(税込),ISBN 4-7966-5307-4

 文庫本が出ました。明らかに、「安い本ほど売れ行きがよい」ので、どの出版社も文庫本化を急いでいるようす。


Le Petit Prince 新訳 星の王子さま」,小島 俊明 訳,中央公論新社,四六判変形,112 p., 20cm,2005年6月25日(6月23日東京の主要書店で発売開始),¥1,575.-,ISBN 4-12-003643-X

 文章は横書き。挿絵の役割が判っていたら、当然こうすべきもの。これで正解です。
 少しくすんだライトブルーの地に金色の押しというジャケットは、悪くはないのですが、凝ったわりにはゴチャゴチャした感じで、スッキリしません。せっかくレイナルヒチコック初版本の表紙をイメージした構図にしたのですが、そのアイデアは活かし切れませんでした。白またはクリーム地に、レイナルヒチコック版と同じ色図柄の方が良かったのでは? (岩波愛蔵版との類似を避けたかったのでしょう。また、後述するデザインの統一コンセプトの要請もあります。)

 日本ではなぜかジャケットがメインの表紙として扱われます。加えて、ジャケットの上に腰巻きまで付けた重装備が珍しくありません。
 本当はジャケットを取り除いたのが「本体」ですから、その「表紙」も重視して欲しいものです。その表紙のデザインは左のようなもの。白地に「ゾウを呑んだウワバミ」が、同じライトブルーで印刷されており、スッキリ・シンプルで好感が持てます(古いチェコスロバキア版に匹敵するモダンなセンスではないでしょうか)。さらに表紙をめくって現れるタイトルページには、同じライトブルーで Le Petit Prince の文字が浮かびます。このことによって、ふたつの主張が明らかになります。このライトブルーが本書のモチーフカラーであること、そして、書名の主役は「星の王子さま」ではなく“Le Petit Prince”なのだということです。角山溝付きの製本ながら、のどぎれやリボンに至る隅々まで行き届いた気の配りで、デザインへの力の入れようと相まって、出版社が本気で取り組んでいることを感じさせます(ただし、望遠鏡に星がないのは感心しません)。先発3社のうちでは、頭ひとつ抜きん出た造本です。

 サンテックスの文章が持つ響きの美しさを再現することに心を砕いたと言います。確かに、黙読する限りでは、起伏とリズムは悪くありません。内藤 濯訳と競合する「です・ます調」を選んだのも、語尾でリズムを揃えるのと、全体を物静かな感じに整えるためでしょう。気を配った跡は充分に見て取れます。しかし、「響きの美しさ」は実際に朗読してみなければ、本当の成果を判断できません。小島さんはこの作品を声に出して読んでみることはしなかったのだろうと思います。目で追った限りでは調子よく進むものが、声に出すと旨く響かないのはよくあることです。たとえば、小島さんは“Boa”を「ウワバミ」と訳しています。訳の良否はさておくとして、これは発音しにくい言葉なのです。アナウンサーのように発声訓練を受けている人以外では、唇の動きが大きすぎて発音はぎこちなく、それまでのリズムが崩れてしまいます。声に出して読むチェックをしていたら *、「ウワバミ」にはならなかったろうと思うのです。同じことは、他の部分でも認められます。

*  昔あるテレビジョン番組で、伴奏の重要性を視聴者に説明しているのを視たことがあります。招かれたピアニストは、声楽家からは絶大な支持を受けている人で、ソロリサイタルを開くときには必ず伴奏をお願いされるということでした。その秘密は、鍵盤の上に指を滑らせる技術だけでなく、演奏しながらの息継ぎにありました。声は出さず、しかし、歌手の歌にあわせて呼吸をしていたのです。息を一杯に吐いたあと、大きく息を吸い込まなければならないときのコンマ何秒かの『間(マ)』の違い。それが「他のピアニストよりも格段に歌いやすい」原因だったのです。呼吸を合わせているからこそ出来ることです。それがなくては、主役の筈のソロ歌手がピアノに合わせて伴唱することになってしまいます。
 文章も同じです。同じ言葉を使っていても、読点の打ち方一つでリズムは別のものになります。朗読するための文章チェックを、黙読や小声の音読で済ますことは出来ません。

 翻訳の点でも、原文に忠実でない点が散見されます。たとえば、内藤 濯さんが「赤黒先生」と噴飯ものの訳をしてしまった箇所を見てみましょう。2度出てきますが、サンテックスはふたつを使い分けています。“un Mosieur cramoisi”と“un gros Mosieur rouge” です。小島さんはこれを「深紅さん」「ふとっちょの深紅さん」と同じ単語に統一しています(因みに、肩書きその他から何かと小島さんと比較される三野さんは、「真っ赤な顔をしたおじさん」「太った赤ら顔のおじさん」と微妙に使い分けています)。原文を読めない人にとっては、意味は似ていても別の単語が使われていることが解るような翻訳が望ましいことはいうまでもありません。
 「深紅さん」と訳したことには、明確な主張が読み取られます。病的でない限り人肌を深紅と表現することはありませんから、「深紅」なのは服装・その他の色を表すことになります。どちらがよいかはともかくとして、「赤ら顔」では人の特徴を表すに過ぎませんが、「深紅さん」といわれれば読者は「何のことだろう?」と考えるでしょう。(「深紅さん」は文章のリズムを乱していますが、それ以上に、あまりにも異質で前後にそぐわない言葉です。人物の特徴をも示す別の言葉で、裏に他の意味が潜んでいるかも知れないことを示唆できたらすばらしかったろうと思います。)

 著書 「おとなのための星の王子さま」で"mouton" と "bélier" の違いを解説したのは、他ならぬ小島さんです。そのふたつを本書では「おとなしいヒツジ」「乱暴なヒツジ」と訳し分けます。 制御しきれない猛獣並みのヒツジでは困るということですからこれでよいのですが、もう一つの裏の可能性、「バラに襲いかかる可能性を秘めたオス」という解釈を排除する翻案になります。できれば生殖能力の有無をも訳し込んで頂けたら、日本語訳を頼りに Le Petit Prince を読み解こうとする人には、ありがたかったのではないかと思われます。

 新訳はふたつに大別できます。作家グループによるものと、文学者グループによるものとです。後者に属する本命の一つと期待が大きかっただけに、どうしても不満が先に立ちます。思い悩み考えあぐねたであろう跡が随所に見え隠れして、苦心のほどがしのばれるのですが、できあがりに充分反映されているとは言い難い結果になりました。もう少し熟成期間が必要なのでしょうか。

Le Petit Prince 星の王子さま」,小島 俊明 訳,中公文庫,156 p., 15.1cm(文庫版),2006年3月25日,¥590.- + 税,ISBN 4-12-204665-3

 文庫本になりました。新訳すべて、価格の安いものが圧倒的な売れ行きを示していますから、文庫版なしでは勝負にならない状況です。
 文章は横書き。カラー挿絵。本文はもちろん、上記の“愛蔵版”と同じです。
 仙石原の「星の王子さまミュージアム」100円引き優待券栞が挟み込んであったのは、販売店の仕業でしょうか、それとも、出版社がタイアップしたのでしょうか。“この本を片手に . . . . に行こう!!”とあります。この栞によれば、「星の王子さま」は童話だそうです。


小さな王子さま ,山崎 庸一郎 訳,みすず書房,A5判,119 p., 20cm,2005年8月24日東京の主要書店で発売開始,¥2,000.- + 税,ISBN 4-622-07158-4

 表紙には左画像のようなジャケットがかかり、帯はありません。ハードカバーの表紙はダークブルーの地に黒文字。角山溝付きの製本 と相俟って、取り立てて言うべき特徴はありません。それなのに本体価格¥2000.- は高いと言わざるを得ません。
 文章は横書き。巻末に40項目の註釈・解説があるのは評価に値します。現在のところ「星の王子さま」という表題を掲げない唯一の訳。その理由は、「星の」とすると王子が地球以外からやって来たことを限定してしまい、実は「飛行士」の内面に形成された心的投影である可能性を排除することになってしまうからだといいます。この見解は極めて正しく、内藤訳の大きな欠点の一つを明確に指摘するものです。ただし、「王子さま」は継承されました。訳者は既に、“prince”が「王子」に限らないことを何度も指摘しているので、「王子」と限定した点についての見解もつまびらかにして欲しかったと思います。

 40項目16ページに及ぶ註は、充分とはいえないまでも、サンテグジュペリ研究の第一人者としての面目躍如と言うべきもので、Le Petit Prince 日本語訳を語るに本書を欠かすことは出来ない存在です。実際、フランス国立図書館にあるタイプ原稿やモーガン美術館の手書き原稿(シルビアに贈られた草稿)まで持ち出されては *、素人の私などはただただ恐れ入る他ないのです。でも、不満もあります。

  * フランス国立図書館やモーガン美術館に行って、実物を閲覧なさったのだと思っていました。さすが、日本での第一人者としての名声と大学教授の肩書きは威力があると感心したのですが、私の誤解だった可能性があります。
 不勉強な私は(お金もありませんから)プレイヤード版のサンテックス全集を買っていませんでした。どうせそれ以前の版と同じだろうと思っていたからです。藤田さんの「『星の王子さま』を読む 」を読んで、最新版はそれ以前とは面目を一新したのだと知りました。藤田さんの本を検証するためにも必要ですから大急ぎで取り寄せたのです。ざっと目を通すと、フランス国立図書館やモーガン美術館の原稿のことも書いてあります。この全集で読んだことをもとに書いたのなら、当然引用文献として明示するべきもので、引用がないので山崎さんが直接赴いてお調べになったのだとばかり思っておりました。実際にそうなのかも知れませんが、この項の最後で既に述べたように、引用文献の明示に少々ルーズなところがあるようですから、ひょっとしたら現地で実見なさったことはないのかも知れません。

 表紙を繰ると扉に2行「星を出るにあたって、小さな王子さまは/渡り鳥の移住を利用したのだと思います」と文章があります。この位置に、図と独立してこの文が置かれる必然性はありませんし、原作の構成に忠実でもありません。また、フランス文学者が訳すとどうしても直訳に近くなる傾向があるのですが、この「渡り鳥」は原作に忠実ではありません。
 第4ページのタイトルバックに、英語で“First published by Editions Gallimard, Paris, 1946”とあり、これに呼応する形で第116ページの「あとがき」に、「Gallimard 1946 の全訳である」と述べられています。世界初の出版という意味ならば、1943年のレイナル・ヒチコック社版がその栄を担うのであって、ガリマール社ではありません。もし、「ガリマール社の初版」と言いたいのであれば、1945年であることはガリマール社自身が認めていることです。ガリマール社1946年版の実在を私は疑っています。ペーパーバックの普及版は1947年になって発行されたのではないでしょうか?
 これに関連して、第101ページの註で、(日没の回数が)「レイナル・アンド・ヒチコック社版および戦後に刊行されたガリマール社版でも、長いこと43回だった。 . . . . . . 当初から両者の版ともに44回となっていて、齟齬が生じていた。」と述べられますが、この混乱ぶりは何としたことでしょう。レイナル・ヒチコック版が43回であったことは一度もありません ガリマール1945年版に限って言えば44回で、齟齬はありません。

 図の扱いにはもっと気を遣って欲しいものです。第16ページ、望遠鏡の先に星がありません。もっと重要なことが、最終部分に露呈します。第27章の「倒れる王子」の図が第26章の最後になってしまい、更に、エピローグ部分が(同じ大きさの活字を使ったために)第27章に取り込まれた結果、無色の「砂丘と星」の図が第27章の図になってしまいました。これは極めて重要な失策で、この物語の解釈が不充分であることを表しています。この点に関しては岩波版以下です。(この図の重要性については、 三野さんの解説を参照してください。)

 他にも細かな不満はいろいろあって、あげつらっていると長くなりますから、短く済ますことが出来るもの数例をあげます。第3ページのヒツジを入れた「ケース」はいただけません。第45ページの「コフキコガネ」(un hanneton)には一驚。(ドレスダウンの註釈に「裸馬」という、極めて限られた人々にしか通用しないスラングをあてたことを思い出します。蛇足であることを承知の上で付け加えるならば、June bug のように季節の名前で呼ばれる虫や花は、地域によってその実体が異なりますから、限定的な種名を特定しない方がよいと思われます)。第20ページの“les moutons”“ils”“tes moutons”が「ヒツジ」「ヒツジたち」と単数になったり複数に訳されたりするのは、訳の正確さに欠けるのではないでしょうか。第51ページ、「あえて心に認めようとはしなかったこと」の「認め」を「シタタメ」と読む人は殆どいないでしょう。「ミトメ」と読んでしまったら、意味不明の文章になります。

 きりがありませんが最後にもう一つ。B612 が機体番号と同一であることを述べたくだりで、それを最初に指摘した文献を明示しないのは慣習に反し、非礼と呼ばれても仕方のないやり方です。理科系論文であったら、編集者から突き返されて書き直しを要求されることでしょう。


 愛蔵版「星の王子さま,池澤 夏樹 訳,集英社,20 cm, p.125,2005年8月25日 東京の主要書店で発売開始,¥1200.- +税,ISBN 408773434X

 横書き、左綴じ。細長の変形判。カバーなし。帯(黄色の部分)がカバーの代用になるほど幅広で、王子の肖像には凝った印刷方法が使われています。

   帯を取ったハードカバーの表紙はネイビーブルーの布貼り(50周年記念版として各国で出版された大型豪華本の表紙コンセプトのミニチュア版。ただし、縦横比はまったく異なる)。右下隅にはゾウを呑んだウワバミの絵。
   エンドペーパーとリボン(部分拡大)。エンドペーパーは星空のイメージ。リボンには星と Le Petit Prince の文字が。
 「星の王子さま」という題名を踏襲したことについて、訳者は「タイトルについての付記」という一項を設けて言い訳を試みます。「この邦題は優れている。実際の話、これ以外の題は考えられない。」(「星の王子さま」は題名だけで使用され、本文中では「小さな王子さま」と表現されています。表題だけとはいえ「星の王子さま」、いくつかの候補の中からひとつだけ選び出した結果というのならともかく、これ以外「考えられない」としたら、作家としての無能ぶりを披瀝しているに過ぎません。名誉な言明とはいえないでしょう。)
 そして更に強弁します。「こういうときに日本では古来、その人が住むところの名を冠した。「桐壺の更衣」も「清水の次郎長」もこのゆかしい原理から生まれた呼び名であり、「星の王子さま」もこの原理に沿った命名だからこそ、定訳となったのだ。」 【この程度の理解しかできていないのですかねぇ。「女御・更衣」は「あまた」居るから、与えられた居室名で区別したのですし、ヤクザ界では、下っ端は出身地や身体的な特徴を、親分はその本拠地や縄張りを冠して呼ぶのが普通です。「こういうとき」にはあたらないでしょう。(二段命名法については、拙稿「 没落貴族」の最初の段落をご参照下さい。)】
 ゆかしいとは思われませんが、それはともかくとして、救いがたい誤りがふたつあります。第一に訳者は、「王子は地球外からやって来た」と主張するわけです。これは、山崎氏が指摘した「パイロットの内面の投影」という可能性を真っ向から否定する解釈です【拙稿 「星の王子さま」論考/Le Petit Prince 考究 の終章: 夢の胡蝶か胡蝶の夢かもご覧下さい】。この訳者は、物語の解釈に極めて強い指向性を課し、「子供向けの物語」という解釈を踏襲すると宣言するのです。読者は、そこからの逸脱を許されません。「翻訳というのはとても丁寧に本を読むことだ」と訳者は言います。丁寧に読んだ結果がこれだとしたら、新訳を世に問う意味はないのではないでしょうか。
 第二に、内藤訳は著作権法の庇護の下、実に52年の永きにわたって排他的な独占権を謳歌してきました。その呪縛からやっと解き放たれた今、どのような題名が「定訳」となるかはこれから決まるのです。Le Petit Prince を「子供向けの童話」としてしか読めないような底の浅い作家にそれを決める資格はありませんし、また、その時期でもありません。

 挿絵に関して不思議な現象が起きています。天文学者の望遠鏡の先に星がない新訳が多いのは理解し難いことですが、本書にもやはり星がありません。この星は重要です。この位置に望遠鏡を持ってきたら、星の行き場がないこと位判りきったことでしょう。もっと心を込めて校正して頂きたいものです。

 この書誌中、作家グループの翻訳には、逐語訳的な正確さを求めない方針です。文章全体としての雰囲気や、情景の描写が重要だと考えるからです。したがって、単語としての誤訳よりは、意味上の可否を問いながら文章を読んで行きました。
 人気作家だけあって、この訳者の文章力は大したものです。実に軽やかに、アップテンポのリズムが物語を満たします。地の文も、語りも、会話も、現代的な日本語にこなれています。ときに読点もない長い文が現れて「あれ?」と思わせますが、作為があってのことではなく、単なる処理ミス*のようで、基本的には短い文がサクサクと続きます。若い人からは大きな支持を集めることでしょう。

* 複数の根拠から、フランス語を直接日本語化したのではなく、「下訳」の日本文があって、それを訳者流の日本語に書き直したのだと思われます。下訳からの変換や最終チェックに手抜かりがあったのでしょう。

 意味不明なところもあります。点灯夫の星を離れるにあたっての、「王子さまは自分にさえ秘密にしておいたけれども」は、まともな日本語ではありません。「『子供は運がいい』と転轍手はいった。」は解釈に苦しみます。【「運がいい」は慣用句ですが、同様の慣用句を「植物なのに困ったことだ」(慣用では「運が悪い」)と訳しています。これは良訳です。】 もう少し首をひねって(「頭をひねる」p.25 ことは出来ません!)意味が取れる訳を考えて戴かないと . . . . 。

 さて、ずいぶん長くなってしまいました。話をまとめましょう。訳者はあとがきで、「あまり小説らしい小説ではない。ここではストーリーはメッセージの容器でしかないから、ごくあっさりしたものだ」と言います。同じ作家グループの倉橋由美子さんが「この結末は小説としては過不足ない見事なものです」と述べているのと好対照。
 私はこの訳者の言い分を支持しません。驚くべきことに、幾重にも構造化されたこの物語を全く読めていないのです。言葉やリズムは変わっても、内藤訳と全く同じ解釈を本書は提出します。この新訳は、岩波版の代替品でしかないと私は思います。

 本書は 、長い期間をかけて岩波版と入れ替わり、売り上げトップの座を占めると思われます。新解釈がありませんから、何の違和感もなく内藤訳のファンを居抜きで貰い受けることが出来ます。軽快なテンポは、若い人たちから歓迎されることでしょう。そして、出版社が渾身の力を振り絞った、価格設定と造本デザインがものを言います。スピン(リボン)の造作は「かわいい!」と歓声を上げさせることでしょう。帯の特殊印刷も人目を惹きましょう。布貼りの落ち着いた質感と手触りは、競争相手を寄せ付けません。女子大生(今や死語!)が「星の王子さま」をアクセサリー代わりに小脇に抱えて街を歩いたブームが、再来するかも知れません。内容は評価に値しなくとも、見てくれ一番の華があります。集英社は商売上手と言うべきなのでしょうか。

星の王子さま(集英社文庫),池澤 夏樹 訳,集英社,15 cm, p.,2005年8月25日 東京の主要書店で発売開始,¥400.- (税込),ISBN 4087604942

 文庫版。ペーパーバック。挿絵はすべて単色。本文は愛蔵版と同じ。廉価普及版。本命は愛蔵版ですが、売り上げ部数ではこの文庫版がダントツの数値をたたき出すものと思われます。


 絵本版「星の王子さま,池澤 夏樹 訳,集英社,AB 版 26.6 cm, p.96+2,2006年10月31日,¥1700.- +税,ISBN 4-08-299016-X

 大判です。そして中を見ると、絵が大きいものが多くなっています。更に言えば、価格が高いのが気になります。
 最後の2ページに「大人のための訳者のあとがき」が設けられており、全部を読むに足る内容なのですが、「そこでちょっと心配なことがある。『星の王子さま』にはすばらしい絵があるから幼い子も入っていける。だが、その先で文章の論理がむずかしかったり、譬喩がわかりにくかったりする部分でつまずいて、それっきりこの本との縁が切れてしまったりしたらどうしよう?それはその子にとってとてももったいないことだ。」という部分が、この「あとがき」で最も重要な部分と考えられます。この点こそが、内藤 濯 をはじめ、多くの翻訳者が失敗を繰り返した要の点なのです。訳者はこれを、大人用と子供用の二つの訳に分離することで乗り越えようと試みたわけです。その試行は、一応の成功を見たと評価して良いでしょう。
 漢字にはすべて振り仮名が振ってあります。本当に幼い子には、まだ難しいと感じる単語が残ってはいますが、原作の制約もありますから、仕方がないことでしょう。読み聞かせ用に発音してみても、無理なところは殆どありません。【 横書きです。apprivoiser は「仲良くなる」、champignon は「キノコ」と訳されています。天文学者の「星」は現れました。コッペパンは居残っています。】
 子供用にはこれ、といえる翻案がやっと現れたと言って良いと思われます。


 プチ・プランス,川上 勉・廿楽 美登利 訳,グラフ社,19 cm, p.199,2005年10月14日発売開始,¥1500.- +税,ISBN 4766209192

 「星の王子さま」という題名を採用しなかったことは高く評価します。しかし、これでは芸がなさ過ぎるのではないでしょうか(原作の冒涜といって良いあの単行本絵本アニメーションの漫画を思い出してしまいました)。「プチ」も「プランス」も多義単語で、多義性を保ったまま日本語に移すことが不可能なことは重々承知しています。考えあぐねた末なのでしょうが、それでも何とかして欲しかったと思います。
 本を開いて一番目につく特徴は、挿絵が大きいことです。原書(もちろんレイナル・ヒチコック版)より大きい絵すらあります。判形は小さいのですから、まるで絵本の様相を呈します。無理に拡大してあるため、網点の荒れが目立つものもあります。色は薄手で、新訳群の中ではレイナル・ヒチコック版に最も近いものになっています。原作ではキャプションがついた絵とつかない絵があるのですが、本書ではすべての挿絵にキャプションをつけています。不必要ですし、説明文の選択や翻訳が適切とはいえないものもありますから、この試みは失敗といって良いでしょう。
 原文付きです(そのため、日本国内でしか販売できません)が、別冊にした方が参照するには便利ですし、日本語訳を読む読者にとって特に必要とも思われません。解説は言い古された内容で、新しい解釈・意見を含んでいません。
 会話の tutoyer の語法を表現するために「 . . . . かい?」という語尾を用いていますが、原文の雰囲気を壊してしまい、成功とはいえない結果に終わりました。特に、操縦士と王子が互いに同じ語尾で会話する場面では、非常に煩わしい感じになります。
 「. . . . . 、一度、一枚の見事な絵を . . . .(p.6)」はまさに直訳ですが、本書全体では逐語訳はむしろ少なく、結構大胆な(原文を離れてしまう)意訳が多くみられます。はじめは直訳が多いのに、話が進むに従ってなぜか意訳が多くなってゆきます。不適切な訳もあります。たとえば、現代の日本語で「コピー」というと、ゼロックスに代表される乾式フォトコピーを指すのが普通ですから、「ここにあるのが、その絵のコピーだ(p.6)」は戴けません。同じく、「マント(p.48 他)」は、日本語では袖無しの外套のことですので、適訳とはいえません。また、「緋色の服と貂の白い毛皮で作られたマントを」(p.48)は、単純にはその通りなのですが、挿絵と併せると「緋色と白に染め分けた貂の毛皮で作られたマントを」と訳すべきであると思われます。
 「そうだとも」 . . . . 「そりゃそうだが」 . . . . 「そのとおりだ」 . . . . (p.118)と同じ原文を少しづつ言葉を換えて訳します。この物語りでは、同じ文言を3回繰り返す手法が多用されます。読み解くべきメッセージが込められていると思わなくてはなりません。これもそのひとつです。日本語版しか読まない読者は、ニュアンスが異なる単語が使われていると誤解してしまうでしょう。ここは、正確に同じ言葉を繰り返さなくてはなりません。
 「あとがき」で、「 . . . . カーチス・ヒチコックから『プチ・プランス』の売れ行きが好調である旨の手紙を . . . . 」(p.131)と書きますが、事実に反します。当時英語版 The Little Prince の販売数はまあまあでしたが、フランス語版 Le Petit Prince の売れ行きはさっぱりでした。両版が好調と呼べるほどの売れ行きになるのは、サンテックスが行方不明になったと報道されてからのことです。

 出そろった新訳群の中で、本書を推すべき理由を一つも見つけられません。評価は残念なものになりました。


 小さな王子」新訳『星の王子さま』,藤田 尊潮  訳,八坂書房,20 cm(B6 判), p.139,2005年10月25日発売開始,¥1400.- +税,ISBN 4896948629

 同時発売 『星の王子さま』を読む,藤田 尊潮  訳,八坂書房,20 cm(B6 判), p.189,2005年10月25日発売開始,¥1600.- +税,ISBN 4896948637

ジャケットと帯
 同時発売の解説書とは色変わりのデザイン。

表紙
 ハーコート・ブレイス版に似せたイメージ。これも色変わり。

フリーエンドペーパーと扉
 

タイトルページ
 左ページの煩雑さと右ページのマヌケな空間。この構図ならば、タイトルは右ページに配置すべきもの。縦書きにした咎めがこんな所にも顔を出します。

ジャケットと帯

表紙

フリーエンドペーパーと扉

タイトルページ

  この他にも、画像は示しませんが、喉裂れの色も異なります。

 翻訳と解説書が、最初からの企画としてペアで同時発売されることは大歓迎です。上の画像でも明らかなように、企画そのものは非常にまっとうなもので、縦書きであること・タイトルページの文字配置が信じられない構成であること、を除けば、デザインその他は水準を超えるものと評価できます。そして、ジャケットの上に巻かれた帯で、互いに「併読をおすすめします」と強調します。当然のことです。がしかし、このせっかくの企画を著者は見事に裏切ってしまいます。子供の読み物という視点の狭さ、子供の読み物に押し込めようという予断、が翻訳の基本方向を誤らせているのです。

 訳者は「あとがき」で、『. . . . . 最近何かとこの本が「おとな」のためにあるかのようにいわれすぎていて、当のこどもたちが置き去りにされているような . . . . 。サン=テグジュペリは「子どもたち」のためにこの本を書きました』といいます。『そして、この本の校閲者は、わたしの十一歳になる息子なのです(p.139)』と誇らかにその正当性を謳い上げます。
 その同じ著者が、解説書「星の王子さまを読む」の中では、「『星の王子さま』について考えるとき、特に注意しなければならないのは、それが単なる子供向けの童話ではないということです。もちろん子供でも . . . . 。. . . . 。もうこれはりっぱな哲学的問題です(P.37-38)」と説き、度が過ぎるほどに「城塞」を引用して「星の王子さま」の解説を行います。(少なくとも「星の王子さま」が児童書であると主張するほとんどの読者は、「城塞」をまともに読んではいないはずです。)「城塞」を引用しながら「星の王子さま」を解説し、なおそれが「子どものために書れた」と言い張るのは、救いがたい自家撞着です。その根本的な矛盾をこの著者は犯します。そもそも、校閲者である息子さんは「星の王子さまを読む」もお読みになったのでしょうか? そして、その内容が理解できたとおっしゃるのでしょうか? 十一歳であの難解極まる「城塞」を理解できるような、後生畏るべき息子さんをお持ちだとはとても考えられません。二つの書が主張するところは、著者の人格が分裂しているのではないかとさえ疑わせてしまいます。
 解説書だけでなく、本書でも『. . . . . 「ボア」にも、そしてこの「毒ヘビ」にも、共通する女性性を見いだすことができると思うのです。「ボア」の女性性については . . . 。「毒ヘビ」は「王子さま」を「殺す」だけでなく、. . . 一種産婆的な役割を担うのだと考え、. . . 。(p. 137)』と「あとがき」で述べますが、「子ども」に解る内容だと思いますか?

 また、著者は限度を超えた仮名書きを行い、文章を非常に「読み難く」してしまいます。加えて、子どもには理解を期待できない単語も残してしまいます。
 「子どもたちは運がいいな」とこうかん手はいった。(p.104);多くの人が平気でこのような訳をするのは全く驚くほかないのですが、ここで「運がいい」は意味不明な駄訳です。「こうかん手」は良訳とはいえません。仮名書きにすれば尚更です。
 . . . とてもシンプルな花があった。(p. 37)/ わたしは、 さい悪じたいも考えていた。(p. 38)/ でも、花は緑のつぼみの中にかくれて、美しいよそおいじゅんびをなかなかやめなかった。花はにゅうねんに自分の色をえらび、. . . .(p. 38) . . . . 大臣ににんめいする!」(p. 53)/ 年老いたこのせんせい君主を(p. 55)/「 かっ車 」「風見鶏」(p. 110。同一行内、風見鶏はふりがな付き);「シンプル」は子供には難しいでしょう。その他の平仮名書きは、内容が理解できる年齢ならば漢字でも読めるのではないでしょうか。これらの平仮名は「読み」に適してはいません。
 漢字が読めない年齢層を対象にしているのならば、「読み聞かせ」の手法がとられるのですから、耳で聞いて理解できる単語選びをしなければなりません。本気で子ども向きにするのならば、単語の選び直しが必要です。また、読みのリズムも大切です。この2点に関しては大いに不満が残ります。

 基本的には内藤訳の焼き直し。フランス語版ではなく、内藤訳をベースにした(もしくは、知らず知らずのうちに内藤訳が下敷きになってしまうほど読み込んでいた)のではないかと思われます。
 訳そのものは良くできています。心静かに読み返せば悪くはない翻案なのに、読み終わった後味が良くないのはなぜでしょう。上述の仮名書き過多が原因であることは明らかです。このバランスの崩れは、一旦完成した原稿を「子ども向き」に作り直したからではないでしょうか。「子どもにも読める」ことは「当の子どもたち」ということにはなりません。「子ども向き」という自己矛盾の基軸を考え直して無理な仮名書きを漢字に換えれば、アンバランスが解消されて、ランクは2段階ほど上がる内容です。


 「新」訳 星の王子さま,辛酸なめ子 訳・絵,コアマガジン,20 cm(B6判), p.127,2005年11月25日発売開始,¥1500.- +税,ISBN 4877349006

 既成の殻を破るという、今まで誰もなし得なかった翻案を期待していたのですが、全く別方向へ向かって走る作品を手にすることになりました。この作品、「星の王子さま」ファンからは総スカンを食うことでしょう。重版も覚束ない赤字になるのではないかと、他人事ながら心配です。縦書きで、独自の挿絵(バラの傍らに寝そべるトラの可愛さは必見。サンテックスはイヌをモデルにトラを描きましたが、こちらはネコそのもの)を搭載していますが、そうした事柄を点検する以前の問題で評価が決まってしまいます。

 「文学作品」としての評価は、「番外」です。Le Petit Prince は、背景を満たす低くかすかなリズムを主旋律に、蜜の色をした砂漠の風紋が醸し出す陰翳を眺めるに似た作品です。陰翳のひとつひとつを覗き込もうとする人々と、それを拒否する人々との間で様々な解釈の違いが生まれ、作品の基調そのものの受け取り方にも大きな差が存在します。読む人に従って大きく表情を変える物語なのです。
 それにしても、という感が拭いきれないのが本書です。蜜色の砂のうねりが、真昼の湘南海岸に変わってしまいました。陰翳はかけらもありません。あっけらかんとしたストーリーだけが原作をなぞってゆきます。原作にはない言い回しも含めて、語り口調はくだけた現代っ子言葉で、挿絵の軽さと相俟って原作の面影をとどめません。

 この作品、思い切った子供向けの改作と理解すれば、存在価値もあるのではないでしょうか。【このようなことをいうと Le Petit Prince を児童文学と主張する人たちは怒り狂うでしょうが、それは目くそが鼻くそを差別しているのに過ぎません。】
 中身のない「子供向け」の作品は少なくありません。たとえば、野口英世を偉人として子供たちに吹き込もうという作品は多いのですが、そこでは、彼が結婚詐欺を働いて渡航費を工面したことや、その費用を一晩で使い果たして、パトロンであった血脇守之助に泣きついたこと、彼が吉原のあちこちの店に山のような借用証を残していたことなどは伏せられます。人間としての野口英世を知るためには必要で魅力的なエピソードなのですが、「子供向き」ではないと削られてしまうのです。
 「子供向けの改作」と割り切って考えれば、4冊組で出版された幼児向けのカードボード版や、似ても似つかぬ漫画になってしまったアニメ番組よりは遙かにましです。そして、「バラはコンスエロかフランスか」といった論議が子供に理解でないことはあきらかですから、それを単なるストーリーとして軽く読み過ごすことができる本書は、子供向けの入門書として最適でしょう。少し学年が進んでから読み直せば、そこに別の意味が隠されていたことに気づく程度の内容はちゃんと残されていますから、決して捨てたものではありません。基本骨格は 内藤 濯 訳に似ています。フランス語からの下訳をもとにしたとあとがきで述べますが、実態は内藤訳を底本にしたのでしょう。


 星の王子さま,石井 洋二郎 訳,ちくま文庫,1.8 cm, p.163,2005年12月8日発売,¥580.- +税,ISBN 4-480-42160-2

 文庫版ながらカラーの挿絵。低価格路線で独走状態の集英社文庫版にとっては強敵の出現です。当然のことながら、横書き。文体はです・ます調で、内藤訳の後を追います。
 原文が「これからおとなになる子ども」と「かつて子どもであったおとな」の両方に向けて語っているので、原則的に子ども達に直接語りかけるような原文の調子を生かすという趣旨から、『です・ます』調を採用したと訳者は述べます。子どもに語りかけるのは「です・ます調」に限りませんし、原文をそう読むべきか否かには若干の問題が残されますが、大きな選択肢の一つであることは疑いがないので、訳者の見識としてはこれでよいと思われます。ただし、「『皆さん』という呼びかけもすべて子どもたちを対象としている」と述べているのには、簡単には賛同できません。数えてみると訳者は、4回「みなさん」を使っています。最初はバオバブを描いた箇所の、「子どもたちよ!」というところで「子どものみなさん!」(p.36)と訳しています。2回目は p.96 に、3回目と4回目は「王子に出会ったら手紙を下さい」というエピローグ(p.157)です。後の3回は、原文はすべて“vous”です。実は原文では、16行のエピローグ中に7回もの“vous”が使われているのです。子どもに対して“vous”を使うことは、相手をおとな扱いしていることを示します。【「子どもたちよ!」をも含めて、すべての「あなた」「あなた方」は「かつて子どもであったおとな」に対する呼びかけであると私は考えています。(内容の理解が無理なのはもちろんのこと、読みこなすだけでも、15歳以下の子供では誤解だらけで、わけの判らない「珍妙な物語」でしかありません。)】

 他の新訳に見られない特色がふたつあります。原文では、発言の引用にはダブルクォーテイション(“”)を、対話を表すのにはダッシュ(―)を使用して区別しています。しかもこのダッシュは、普通使われる n dash や m dash ではなく、通常の大文字2個分の長ダッシュです。他の翻訳では両者共に「」を使い、文中に埋め込むか、その度毎に行を変えるかという方法でしか区別ができません。本書では、会話には長ダッシュと行換えを、引用話には「」を使っており、原文の雰囲気が生かされています。
 もう一つの特徴は、会話中で王子が操縦士を「おじさん」と呼んでいることです。これによって、王子と操縦士の年齢差が強調され、王子が「子ども」であることを読者に再確認させます。

 訳者は30冊に及ぶ著書を持つ文筆家ですが、それらは解説書や研究書ですし、本業は大学教授ですから、作家ではなく文学者として本書を評価することにします。すなわち、原文を大きく誤解させることがない訳文であるか否かがチェックポイントの一つになります。そうした観点からすると本書は、かなり意訳が多いのです。たとえば、「いま、自分に見えているのは、王子の外側だけなんだ。. . . 」(p.128)と訳した「外側」の原文は“écorce”(樹皮・果皮・表面・人の外観)で、このあとの「脱ぎ捨てられたぬけがら」(écorce abondonnée)と対応するのです。「外側」と訳してしまうと、「ぬけがら」とのつながりが切れてしまいます。訳者の心中はよく判ります。中身が見える大ヘビと見えない大ヘビ、そして最後の最も重要な、王子が見える砂丘と見えない砂丘へのつながりの方が大切だと判断したのでしょう。それはその通りで、私も賛成しますが、もう少し言葉を選んでいただくか、註を付けていただくかの方策が欲しかったと惜しまれます。考えてみれば、Le Petit Prince を児童書だとする見解からいつまでたっても抜け出せない、読解レベルの低い読者が後を絶たない現実を考えれば、これ位の強引な誘導は必要なのかも知れません。しかしそれであれば、「子どもに向けても書かれている」とする訳者の基本的な立場は、些か危うくなるのではないでしょうか。
 「頭をひね」ったり、バラにいろいろなことをして「あげ」たり *、昨今の若者言葉の乱れがストレートに持ち込まれているのには、残念な思いをさせられます。
 【* ひねるのは首です。頭を捻ることはできません。子供や動植物には「してやる」のであって、「してあげる」のではありません。(バラが女性であっても同じことです。他所からやって来て移動できないバラの「面倒を見てやって」いるのですから、香りを「喜んであげる」という言い方はないでしょう)。最近よく耳にする、イヌやネコを「この子」と呼んだり、子供に何かを「してあげたり」するのは、保護・非保護の関係を意識していない証拠で、保護・監督の「責任」に無自覚であることの表れです。「自分を褒めてあげたい」「自分にご褒美をあげたい」に至っては、天を仰ぐ以外にするべきことが見つかりません。】

 


 星の王子さま,稲垣 直樹 訳,平凡社(平凡社ライブラリー),16 cm(HL 判), p.179,2006年1月11日発売,¥950.-+税,ISBN 4-582-76562-9

 出版社のウエブサイトは謳います;「子供のまなざしを借りた大人批判の物語という原著者の意図を見事に日本語化。内藤訳への対抗から新訳がこぞって大人の物語に変えるなか、新定番訳といいうる唯一の訳業」と。たしかに、単語の対応関係にこだわらず思い切った意訳を行い、「です、ます」調の語り口で内藤王子さまが築いた世界の乗っ取りを謀る路線は、岩波オリジナル版を意識した価格設定と相俟って、首位の座を狙うダークホースとしての出現です。
 訳者は文学者ですが、作家グループと同じように、単語の対応の正確さを無視し、作品としての良否を評価基準としました。「あとがき」で述べているように、こなれた日本文にするために、名詞を動詞として訳すことが多出しますし、原文にない付け加えも随分あります。フランス語に訳し直して絶対元に戻らない点では、辛酸なめ子訳といい勝負なのです。

 この訳者も挿絵の重要性が判っていません。右開き・縦組みです。そもそもフランス文学者であれば、メモやノートは横書きで録っていることでしょう。漢字・仮名は横書き用に作られていません。その日本語の文字を使っての書き取りですら、筆記の不便を忍んでの横書きなのに、活字で組んだ(つまり、書字とは無関係な)読み物である出版物を縦組みにするとは、一体何を考えているのでしょうか。公文書は横書きに統一されています。文字の書き難さはあるにせよ、アラビア数字の使用等を考え合わせれば、合理的なことです。読みに関しては横組みが断然優れています。読み物を縦組みにする馬鹿げた因習は、(歴史的文書や古典等を除いて)早く淘汰すべきものです。この時代、フランス文学の翻訳本を縦組みにする頭の固さは、信じられません。【ジュエリー版で横組みの優位性に気づいたのでしょう。岩波書店「オリジナル版 」は横組みです。後発でありながら縦組みにした本書は、組版に関しては後塵を拝することになってしまいました。】

 さて、翻案の検討に移ります。既に述べたように、単語レベルでの翻訳の正確さを問いません。たとえば、「 . . . 何千キロも離れた」(マイル)「 . . . 救命ボートで漂流する」(筏)、は訳としては不正確ですが、現代日本語としてはこの方が自然だからです。
 「アメリカのアリゾナ州と . . . 」(p.9)と原文にない「アメリカ」が付け加えられたのは、初期草稿ではアリゾナ州ではなくアメリカであったことを意識してのことでしょうが、蛇足なのではないでしょうか?「子ども」にも判りやすくというのでしたら、問題があります。「アメリカでお昼の十二時だと、フランスでは日の入りの時刻です。だれだってそんなことぐらいは百も承知です」(p.39)といいますが、アリゾナ州がアメリカにあることを説明してやらねばならないほどの年齢では、「だれだって . . . 百も承知」とはいえないでしょう。第一、北米の東西4時間もの時差をどうしてくれるのでしょう?「子ども向けの物語」は、早くも綻びを見せ始めます。
 「ちょっと不機嫌そうに」(p.13)は、そんな振りをした/お芝居をしたという意味になってしまいます。同じく、「そして、たぶん、少しばかりさびしそうなようすで、. . . 」(p.23)も「そしてたぶん、少しばかり気分が落ち込んだのでしょう、」でなくては、日本語として変です。(さもなくば、「たぶん」は削除するべきです。)
 「首」に「こうべ」と振り仮名が振ってある(p.75)のは驚きです。「こうべ」も「垂れる」のも、「首」ではなくて「頭」です。(「頭をひねる」「背中を押す」という突拍子もない言葉が平気で使われる昨今ですが、看過するわけには行きません)。 「王子さまが打ち明けようとはしなかったことがあります。それは . . . 」(p.90)は原文と意味が変わってしまいますが、それで良いのでしょうか? プリンス自身が気づいていなかったのと、操縦士には言わなかったのとでは、物語の内容自体に影響があります。「岩塩」(p.109)は誤訳でしょう。「光の特急列車」(p.129)はあまりに稚拙で、支持しかねる翻案です。
 3度繰り返される“Je ne te qutterai pas”を「ぼくは君から離れないよ」と訳している(p.157)のは不満です。これでは、操縦士の哀しさが読者に伝わりません。フランス映画で、心冷めて去ってゆく恋人に向かってすがりつく言葉「お願い、捨てないで!」の決まり文句は“Ne me quittes pas!”です。人と人との間で quitter が使われるとき、断ち切られるのは空間ではなく心理的なつながりなのです。この場面、操縦士はプリンスに向かって、「決して見捨てない」と繰り返します。それなのに、プリンスは操縦士を振り捨てて星へ還って行こうとしているのです。どうしようもない哀切感と操縦士の取り乱しようは、「離れない」では表現力不足です。

 「訳者あとがき」で、「そもそも文学作品の翻訳というのは、一般に考えられているほど容易な仕事ではない」(p.175)と、単語数が少なく抽象度が高いフランス語の文章を、自然な日本語に移し替えることの困難さを力説します。このことは、どれほど強調しても過ぎるということはありません。「翻訳の基礎技術は一朝一夕に習得できるものではない」(p.177)と雨後の筍のように簇出した新訳(本書で10種目)の多くを暗に批判する気持ちはよく判りますし、誰かがはっきり言うべきことでした。特に、「先行訳があれば、それを参考にして訳を変えてゆくだけで済む」と、とんでもない誤解をしている(しかも、その「先行訳」が極めて不出来であることが判っていない)読者が多いことを考えると、もっと大声で主張すべきでしょう。この訳者にはその資格があると私は思います。
 「タイトルの『星の王子さま』がいかに非凡な創意工夫であるかは . . . 」と、そのタイトルを襲うことの言い訳をします。「非凡」であることは私も賛成です。しかしそれは、「優れている」ことにはなりません。『星の』は全くデタラメです。『王子』であるからには、第一王位継承権者であるか、または王の子であるか、どちらかに限られます(国によっては、王以外の王族男子はすべて“prince”だったりしますが、日本語の「王子」は前記が定義)。そのことを訳者は重々承知しているはずです。「このタイトルを使わせていただいた」のは「ささやかなオマージュを込めて」(p.169)ではなく、100%商業的な要請からであることは、疑いを容れません。選択肢の一つとして恥ずべきことではないのです。なぜ正直にそういわないのでしょうか。

 「子供のまなざしを借りた大人批判」が「原著者の意図」という主張には、私は賛成できません。それはこの作品の価値を貶める解釈です。「子どものための本ということにも配慮して . . . 」(p.178)という考え方に、私は絶対に賛成しません。Le Petit Prince を理解できていない何よりの証拠です。

 “「おとなは表面的な . . . 『量』で判断し、子どもは本質的な『質』を直感で捉える。
 キツネが王子さまに伝える秘密、「心で見なければ、よく見えてこない。大切なものは目には見えない」をふまえれば、子どもは本質で見る(「心で見る」)が、おとなは表層の現象を見る(「目で見る」)ために、本質を捕らえることができない。 . . .
 この価値の転倒を背景として、子どもの理論という「理念型」を想定することで、この「理念型」に照らして、おとなの価値観をサン=テグジュペリは批判するわけである。
 これは . . . . . 、この種の批判の常套手段でもある。. . . . . これ以外にも、同様のおとな社会批判の装置が随所ではたらいていることは、この物語を読めば誰の目にも明らかである。”(p.173-174)

 長くなりましたが、「訳者あとがき」から重要部分をかいつまんで引用しました。「誰の目にも明らか」の「誰」の中に、私は含まれてはおりません。一体いつまで、このバカバカしい「子供神話」 に囚われ続けるつもりなのでしょう。子どもは「量」的な判断をする能力のない未熟な存在に過ぎないのであって、本質的な「質」を捉える能力など持ってはいません。この筆者自身が述べているように、これは「価値の転倒」なのです。無意味な夢想の「理念型」に過ぎません。
 目は正確にものを見ています。錯視図形と呼ばれる騙し絵にたぶらかされるのは、目ではなくて脳です。欲望に「目」が眩んで判断を誤るのも脳の仕業。常識に囚われて事実を見誤るのも脳の性質です。激情に駆られて脳を狂わせるのが「心」であることは、誰だって経験があるでしょう。
 この物語の一番の欠点、まともなおとなになれなかった、精神的に発育不全なサンテックスの勝手な思いの丈を、この物語の本質などと言ってしまったのでは、Le Petit Prince を本当に読んだことにはなりません。Le Petit Prince は既にサンテックスの手を離れ、古典的名著として多くの読者の中にあります。サンテックスが有していた不健全ともいえる倒錯性は、止揚されるべき対象なのです。Le Petit Prince の本質は、おとな社会批判などではありません。

 


 「Le Petit Prince 星の王子さま,河野 万里子 訳,新潮文庫, p.158,2006年3月27日発売,¥476.-+税,ISBN 4-10-212204-4

 帯の白抜き丸の中に「カラー版/たて組み」とあるのには笑ってしまいました。ジャケットは(裏表紙の抄録も含めて)横書きですから、本文の組版については、翻訳者の希望と出版社の都合が折り合わなかったのでしょう。【⇒ 縦書きのシリーズものだから、縦書きにしたのだと思っていました。ところがこの出版社、「抜群に読みやすい『たて組み』!」という新聞広告を出しました(2006.04.03)。「本来ならば横組みにすべきものながら、諸般の事情で縦組みにしました」というお詫び兼お断りではなかったわけです。時代を読めない居直りとしか思われません。】

 推敲を繰り返したのでしょう、文章自体はよく練られていると思います。甘ったるい童話臭を抑えて、緊張感を保つテンポ良い文体です。しかし、一周遅れの感がある後発ですから、よほどの個性がないと先行群に埋没してしまいます。残念ながらこの翻案、存在を誇示できるほどのパンチ力がありません。

 納得できない箇所もあります。たとえば、「ああ!でもそれなら、もう見てきましたよ」(p.57 ; Oh! Mais j'ai déjà vu,..... )は、星を一周してから王様に会ったことになってしまい、誤訳です。「もう判っていますよ」とすべきでしょう。
 「帽子を下に落とす」(p.61; le chapeau tombe), 「すなおにそうおもった」(p.62, p.71 ; se dit-it simplement en lui-même...)、も変です。
 「有能であること、大事なことについて」(p.70 ; les choses sérieuses)と二重訳にしているのは、後に出てくる「あまり有能って感じはしないや」に引っ張られたのでしょうが、適訳とはいえないのではないでしょうか。
 「大物気どり」(p.59 ; in vaniteux)も、後に出てくる「三億千百万人の大物気どり」(p.83)との対応をとった結果でしょうが、やはり違うような気がします。
 「おねがい . . . . . . なつかせて!」(p.102) は、日本語として変です(もちろん、なつく「許可」を求めているわけではないでしょう)。「なつく」は自発的な感情を表す自動詞ですから、他動詞として用いることはできません。

 丁寧に作られた良い翻案だとは思うのですが、11種もの新訳がひしめく今となっては、今少しアクの強さを演出する必要があったと思われます。

 


 小さな星の王子さま,河原 泰則 訳,春秋社, p.168+11+15,19 cm(B6 判), 2006年5月10日発売,¥476.-+税,ISBN 4393455029

 異色の、と言うべきでしょう。訳者は音楽家です。翻訳をしたのは10年も前のことだといいます。そのせいでしょうか、翻案には内藤 濯 さんの残滓が色濃く残っています。しかし、全くの物まねというわけではありません。
 音楽家の真骨頂というべきでしょうか、「千マイルほども遠く遠く人里離れた」(p.13, p.16)という箇所には、内藤さんには望むべくもなかったリズミックな韻が認められます。また、「(飛行機の絵だけは、僕、書く気になりません。. . . . )」(p.20)という部分は小活字を使う等、なかなかに工夫が凝らしてあります。「これはね、ものなんていうような生易しいものじゃないんだ。. . . 」(P.20)という語り口には、今までにない新鮮な表現を感じさせます。操縦士の独り言・王子への語りかけ・読者への語りかけ、3つの内容で口調が変わります。読者に語りかけるときは「です・ます」調です。
 他の翻案に較べると、訳文の分量が多いのです。「砂漠のまんなかに不時着しなきゃいけなかったという . . . 」(p.21)とか「灌木っていうのは、たとえばつつじとかやまぶきなどがそうですが、枝みたいにひょろっと細い幹をたくさん持った、背の低い木のことです」といった、原文にはない文があるからです。このように、説明的な付加文が多いのは、「子供に読み聞かせる」(後述)ことに気を遣った結果なのでしょう。多くの漢字に振り仮名が振ってあるのも、「こども」が読むためのものでしょう。しかし、それであれば、まだまだ「こなれ」が不充分なところが残っています。
 「バオバブのタネが冒していたのです」(p.65)「職務上のきまり」(p.83)といった表現は、「子供」には無理でしょう。誤訳も少なくはありません。“rose”を「赤っぽいピンク色」(p.27)と訳すのは、フランス語の“rose”を誤解している可能性があります【ピンクの原義はローズピンク(濃い色ではありません)なので、「赤っぽい」は不要だと思われます】。「ゾウの一族」troupeau (p.33)は(確かにゾウの群れは家族集団なので動物学的には正しいのですが)、やはり「群れ・集団」と訳すべきものです。「とうとう果実のようなかたちとなって . . .」comme le fruit d'un problrèm . . . は、日本語としても意味不明な誤訳です。
 全部通して音読してみれば判ることですが、文が長く、読み聞かせに適していない部分が少なくありません。【例:「でも、六つのときにボアの外がわと内がわとを描いたきりのこの僕が、今こんな歳になってまた絵を描こうというのですから、それはなかなかたやすいことではないでしょう。」(p.30)】

 付記2(p.173)で、表題を「小さな星の王子さま」としたことの説明をします。しかし、説得性がありません。要するに「星の王子さま」という題名から逃れられなかっただけの話で、言い訳を並べ立てているに過ぎません。また、「サンテグジュペリのこと」(p.174 - 175)で略歴を述べますが、僅か2ページの記述が間違いだらけなのは問題です。 サンテックスを「子爵の子」と述べているのは珍しい主張です。その可能性があることは私も指摘しましたが、日本では少数派。ドイツには「子爵」とする人が比較的多いので、この訳者はドイツ流なのかも知れません。 「空軍でパイロットになる教育を受ける」;フランス空軍はまだ存在しません。自費で民間資格を取りました。 「1925年、飛行士で文壇デビュー」;1926年4月。「飛行士」(雑誌「 銀の船 」収載)は素人の習作で、“文壇”デビューは「南方郵便機」とするのが普通です。 「1938年、飛行中の墜落事故」;離陸失敗を「飛行中」とは言わないでしょう。 「1944年末『ある人質への手紙』出版」;1943年です。 「『人間の大地』1939年初頭」;初頭といえば1月のことですが、英語版の出版は2月、フランス語版は3月です。

   朗読CD付きです。巻末に朗読部分のフランス語付きでなかなか親切なのですが、操縦士も、王子も、同じ調子で読まれるので、違和感が拭えません。声色を変えるか、複数の人間で朗読するか、どちらかにする必要があります。

 


 星の王子さま,谷川 かおる 訳,社,ポプラポケット文庫 417-1, 18cm, p.164,2006年7月9日発売,¥599.- (税込み),ISBN 4-591-09340-9

 会話に特徴があります。「なんで?」「だって、ぼくんとこ、すごく狭いから」(p.19), 「そんなのは何だって?」「キノコッ!」(p.43) 読むよりも、聴くに適したリズム。地の文も発音に向いた語感を保っています。単語選びも文の調子も、子供向きではありません。「物思(ものおも)わしげな沈黙(ちんもく)のあと . . . 」(p.22),「でも、利発(りはつ)そうに、」(p32)等は、振り仮名があっても子供には無理ですから。
 訳の正確さには問題があります。救命ボート(p.13),帽子を落とすには(p.69),王子さまは白状していないけれど(p.85)と言った調子です。「殿下」(p.61)は「陛下」の誤りです。すぐ後に「陛下」(p.66)と出てくるのですから、気をつけて見直していれば防げた間違い。
 もっと早く出版されていれば、売り上げ上位に食い込めただろうと惜しまれます。これからどこまで頑張れるか . . . 。

 


 ちいさな王子,野崎 歓 訳,光文社古典新訳文庫,2006年9月20日(実際は9月7日に発売),p. 174,,¥ 552.- +税,ISBN 4334751032

 「いま、息をしている言葉で、もういちど古典を」と、このシリーズは謳います。Le Petit Prince を古典と呼ぶには少し早いとは思いますが、その古典新訳シリーズ先陣としての配本です。表紙のデザインは、このシリーズに一貫して用いられるモチーフに従った線画。
 現代日本語にこなれている点と、音読に適した単語選び・文構成が為されている点で、後発ながら出版する価値がある翻案です。内容も、細かな点にまで目が行き届いています。たとえば第7章(P.37-43)、Prince と操縦士の「トゲ論争」;
 Prince はB612 に残して来たバラのことを「お花」と呼び、一般の「花」と区別します。操縦士は、初めのうちは「花」と言っていますが、Prince にとって「大切な花」であることが判るにしたがって「そのお花」「お花」と呼ぶようになります。原文にはこのような使い分けはありません。日本語だからこそ出来る陰翳描写と言ってよいでしょう。登場人物が示す事情理解と感情移入を、使う言葉の推移によって表現する優れた翻案であると思います。【ただし「お花がとげをつくるようになってから、もう何百万年もたってる」のように、翻訳の混乱もあります(これは「あのバラ」のことではありませんから「花が」とすべきです)。】
 訳文は軽快です。「そのおとなは何でもわかる人で、こどものための本だってわかるのさ。」といった調子。単語の長さやアクセント、句読点の配置も音読を掣肘しません。【ただし、この「だって」は問題を残します。「子供のため(の本)であっても」「子供のため(の本)だということが」の2様の解釈が可能だからです。またこの軽快さは、必然的に、サンテックスの文章が持つ、余韻と悲しさをうちに秘めた響きとを、そぎ落とすことになるのを避けられません。】
 信じられない誤訳もあります。「モーターの分解修理」(p.16)は内藤訳の轍を踏むものです。「蚊のこと?」(p.69)は、なぜ mouche が mostique に化けるのか、理由が判りません。

 良くできた翻訳なのですが、売れ行きは悪かろうと懸念されます。表紙と標題が原因です。
 「『星の王子さま』という天才的なネーミングであればこそ、この作品はこれだけ親しまれてきたのだ、との説にぼくは与しない(p.151-152)。」この意見には半分賛成です。「天才的」とは、私は思いません。しかし(残念ながら)「星の王子さま」というネーミングは、明らかに売り上げに寄与しました(初めて目にしたとき、「乞食王子」や「幸福な王子」のような地球の王子では、手に取ってみようとする気が起こりにくいのです)。そして、その標題がすでに人口に膾炙してしまったいま、それを踏襲しないことは、売り上げに桎梏をはめる行為です。「たとえば、英語訳は The Little Prince、中国語訳は『小王子』である。多くの国でそうした直訳による命名がなされているだろうことは想像にかたくない。そしてそれは Le Petit Prince が世界中のあらゆる国々で愛されることのさまたげには、まったくならなかったのである*。」(p.152)

* 述べようと意図していることに関してはまったくその通りなのですが、事実に照らしてこの言葉には些か軽率な誤りがあります。“Prince”が王子に限らないことは英語でも同じですから、日本語で「王子」と訳すのとは意味が異なります。「直訳」という表現は適当ではありません。そして、少なくとも現在まで、中国語訳はそんなに読まれてはいません。解禁されて、中国本土で一斉に発売され始めたのは、やっとこの数年のことです。
 この論法は極めて非論理的です。この言明が正しいか否かは、「The Dreamy Prince」「宇宙的少年」といった題名で並行発売されたものが存在するならば、それと比較して初めて結論が出せるものです。「天才的」なネーミングをした日本では、人口に比して類を見ない驚異的な売り上げを達成しました。

 この物語を「絵本」と表現してしまう人が後を絶たないほど、挿絵は重要な地位を占めます。表紙に挿絵を使うことは、売り上げを高めるためには絶対に必要なことです。それを本書ではしませんでした。シリーズのコンセプト上致し方なかったことと察しはしますが、それに加えて標題が「ちいさな王子」であることは致命的です。Le Petit Prince は「星の王子さま」として認知されているのですから、挿絵を使わない表紙とこの標題では、この文庫本がサンテックスのあの物語であると気付く人はいないでしょう。そもそも、店頭で手に取っては貰えない確率が高いのです。

 後書きで述べている、「子どもに対し(あるいは大人のうちなる子どもに対して)、より真率に、直截に語りかける、きっぱりとして飾り気のない調子を意識すべきだろう。実際、とりわけ後半の悲劇的展開において作者は、簡潔にして澄明、そっけないくらい剛毅な文体をつらぬいている。」という部分が、訳文の調子を選ぶに際しての骨幹を表していることは明らかですし、全くその通りなのです。内藤 濯さんの情緒過剰な「童話」が先行し、ひろく行き渡ってしまったために、甘ったるい文調を期待する向きが多いのは、この物語をあるがままに理解する妨げとなっています。が、しかし、原作者の文体に関していえば、この訳者がいう通りというわけでもありません。
 何よりも、締めくくりとしてのエピローグの文体が、大きな影響力を発揮してしまいます。そしてこれは、決して「剛毅」と呼べる文体ではないのです。また、「後半の悲劇的展開」は、そっけない文体でなければ、ドロドロのお涙ちょうだいになってしまいますから(事実、内藤訳を読む人の中には、この部分にいたって『号泣してしまう大人』が少なくないのです)、原文もそのような構成にならざるを得ない必然性があります。翻訳文全体を、一本調子でそうした文体に統一すべきかどうかは問題で、むしろ、物語全体の起伏を損なうおそれすらあり、本書の場合、その陥穽に陥っていると評するべきかと思われます。

 


 星の王子さま,三田 誠広 訳,講談社青い鳥文庫,p.190,18cm(新書判), 2006年11月15日発売,¥560.- +税,ISBN 4-06-148749-3

 パラパラとページを繰ってすぐ気付くことは、挿絵が全て単色だということです。この点で、他の新訳群に較べてひどく見劣りします。シリーズものの文庫本なので仕方がないことなのでしょうが、挿絵をほとんど持たなかった岩波書店の「星の王子さま」(少年文庫版)がはじめは人気がなく、彩色挿絵の大型本を出版してブームを作った教訓は、生かされていないようです。
 唯一のカラー挿絵として口絵代わりに綴じ込まれた絵はがきの色は、(個人的な好みの問題ではあるのですが)原画の品位を貶めるものだと、私は危惧します。賑々しくちりばめられた星々とダークブルーの背景は、「王子の肖像」に泥を塗るセンスであると思うのです。

 訳者本人が宣言するように、「子ども向き」に徹した翻案で、漢字には振り仮名が振られます。そのためなのでしょう、原文にはない説明文の挿入や、改訳が至る所に見られます。たとえば:
 1)レオン・ウエルトへの献辞(p.5 相当)では、「そのおとなはいまフランスに住んでいるのだけれど、そこはいま戦争で、だれもが飢えと寒さに苦しんでいる」と、原文にはない語句が付け加えられます。これは、この物語を矮小化させてしまいます。Le Petit Prince は、戦争という特殊な極限状態に限らず、人がその人生の中で出会う様々な事態に直面して、他の人々とどのように接するべきかという根本的な問題を考えさせる作品だからです。
 2)第一章。「巨大なヘビはえものをかみくだくこともなく、 つるんとまるごとのみこんでしまう」(p.10);「噛み砕く」のは煎餅や骨のように硬いものを細かくするときに使う言葉です。生き物のように柔らかなものを咀嚼するときの表現としては不適切でしょう。「つるんと」は訳者が勝手に付け加えたものです。この挿絵のように大きな獲物を飲み込むとき、ヘビは(呼吸困難と、外敵に攻撃されればひとたまりもない無防備な状態であるという)命がけの作業を行っているのです。「子ども向き」であればこそ余計に、誤った先入観を植え付けないよう教育的な配慮をして欲しいものだと思います。
 3)第二章。「 悲しそうにこちらを見ていた」(p.15);誤訳であるばかりでなく、王子が悲しい思いでヒツジの絵を頼んだのかどうかは、読み終わってからこの物語を振り返るに当たり、極めて重要な意味を持ちます。おそらくこの訳者は、そんなことには気付いていないでしょう。読解力不足の翻訳者が、勝手な思い込みと不用意な言葉選びで「子ども向き」の改作をする、無責任な作品の好例といってよいのではないでしょうか。
 サンテックスの文は、「真実を細部に宿す」推敲を重ねた文章です。大筋さえ変えなければ「解りやすく」言い換えてよい類のものではありません。この種の付け加えや恣意的な改作はすべての章で随所に認められ、首をかしげる言い換え(たとえば、責任 ⇒ つぐない)も枚挙に暇がありません。意訳・誤訳で知られる内藤氏でさえ顔色が変わるであろうほどの「幼児向き」作品に変容してしまっているのです。

 「あとがき」で述べる事柄は、事実に合わないことが少なくありません。それなのに、「ぼくの言うことは信用できると思ってくれていい」と呆れかえるしかない増長ぶりを示したあげく、「すべての漢字にふりがながついているわけではないので、少しむずかしいかもしれないが . . . 」と、著書「星の王子さまの恋愛論」(現在は他の出版社)を自薦するに至っては、その人格を疑ってしまうほどの無責任ぶりです。【同書は「星の王子さまの解説書」などではありませんし、子ども向きの内容とはかけ離れたものです。「ふりがな」を振る・振らないといったレベルの問題ではありません。】

 心配してはいましたが、その想定をはるかに下回る劣悪な「子ども向きの」文章と内容。筋書きだけが Le Petit Prince をなぞり、原作の細やかさはまったく影を潜めています。辛酸なめこ訳よりは原作に近いか、というのが本書に対する総合評価です。

 講談社の「青い鳥文庫」に収録されると、半ば自動的に「大きな文字の青い鳥文庫 」にも採用されます。弱視者用の大文字版です。本書も第2期(全10タイトル)の内の一つとして¥1890,- で販売されました。弱視者用に大文字版が出版されることは良いことなのですが、本書のようにデタラメといって良い翻訳本が出回るのは、とても残念なことです。

鉄面皮教授の恥知らずブログ(抜粋)


 あの 三田 誠広 センセーが、何と! 「星の王子さま」を翻訳なさったそうです。雑音を入れるのを控えておりましたが、脱稿・送稿完了とのことですので、始終の概略を紹介します。(2006.07.18)(旧聞に属しますが、三田誠広氏批判も読んでください。)
 できあがりが「野蛮」で「安易なもの」でないことを、切に祈っております。【蛇足ながら、(内藤訳も含めて)すべての日本語訳は、著作権法の保護期間中。「既訳」を盗用すれば違法となる。】

転載許可を受けておりません。インターネット上に誰でもアクセスできる形で公開されているので、「勝手」に抜粋・転載させていただきます(文字の色は私が付け加えました)。著作権法上問題があれば提訴してください。必ずお受けいたします。

04/17
 入り替わりに講談社の編集者来訪。直前までいた集英社文庫の担当編集者に、「星の王子さまの恋愛論」を出してもらったのだが、それを読んだ講談社の担当者が「青い鳥文庫」に「星の王子さま」を入れたいと声をかけてくれた。. . . . . ようやく念願かなって自分で翻訳できるのは嬉しい *。夏休みの仕事になる。

* 「 生きてゆくためとはいえ 、たった50年で保護期間が過ぎた『星の王子さま』を勝手に翻訳するのはとても恥ずかしい 」の間違いではないかと、何度も読み返しました。間違いなく「嬉しい」とお書きになっていらっしゃいます。

 センセーは、至る所で「50年で勝手に翻訳できるのは、野蛮で恥ずかしいことだ」と公言なさっています。
【たとえば;「ご承知のように、フランスの場合、著作権期間が70年である。しかし日本は50年で、すると、日本で外国の作家の本を出す場合も、50年で切れてしまう。フランスその他の諸外国で著作権が生きている作家の本が、50年で日本ではフリーになってしまう。この状況というのは、世界的に見ると非常に恥ずかしい事態ではないか。」(第18回 文化審議会著作権分科会)(蛇足ながら、「フランスの場合」ではなく「EU の場合」が正しい。著作権保護に関しても EU が単位として機能し、加盟各国は EU 内の協定に縛られる)】

 それとも、講談社だけは節を守って、権利継承者会とフルクトオーソ氏に著作権料を払うのでしょうかね〜?

6/22
 . . . . . で、試しに次の仕事に取り組んでみる。「星の王子さま」の翻訳。子供向けなので、文体が勝負だ。1ページほどやってみたが、いい感じだ。楽しめそうな仕事だ。

06/30
 「星の王子さま」の翻訳は、すごいスピードで進んでいる。問題は何もない。. . . . . が、とにかく作業にあたればすらすらと文章が書けるので、翻訳というのは楽な商売だ。もちろん、まったくの新訳だと、意味不明の箇所にぶつかる度に、思い迷うことになるのだろうが、「星の王子さま」は既訳がある。むしろ既訳を見てしまうと、同じ訳ができないので、なるべく見ないようにしている。例えば、「涙の国」という箇所について、内藤さんと池沢さんの訳を参照するといったことはする。お二人は「涙の国」と訳している。わたしがやろうとしているのは、小学生高学年を読者に想定する児童向きの文庫なので、「涙の国」にはしない。というような作業は、たぶん7月中に終わるだろう。

07/01
 小説家というものは、一種のフリーターである。一つの仕事が終わると、次の仕事が待っているわけではない。そこで、当面の仕事をしながら、次の仕事の準備をすることになる。自営業者の営業活動だ。そこには長期的な仕事と、中期的、短期的な仕事がある。長期的な仕事というのは、ライフワークといっていいもので、半年から一年の準備が必要なものだ。. . . . . といったものがそれで、これは営業活動をしなくていい。 さて、7月になった。. . . . . で、今月は大きな仕事をしないということにしておく。といっても、仕事はする。「星の王子さま」の翻訳。もう半分近くまで来ているので、今月中には完了する。
 営業といっても、飛び込みで企画をもちこむわけではない。担当編集者が数人いれば、一人の担当者と年に一度仕事をすれば、それで回転していく。. . . . . 「星の王子さま」も原稿を渡す時に、オリジナルで児童文学ができないか営業をかける。
 . . . . . この作業には集中力が必要である。アイデアが出ないこともあるだろうが、そういう時は「星の王子さま」をやればいい。翻訳という作業をしてみると、この作品の深さがさらにわかってきた。既存の翻訳も参照しているが、正確に訳そうという配慮があるだけで、深さにまでは届いていない。「釈迦と維摩」を書いた時に似ている。あれも原典があるので翻訳みたいなものだが、仏教の原理が秘められているのを、どの程度、解説的にとりこみ、どの程度まで意味不明のままに留め置くかというのがポイントだった。「星の王子さま」も解説してはつまらなくなる。とくに読者が子供なので、抽象的な用語は使えない。子供でも理解できる日常語をつかいながら、奥深い原理を盛り込まないといけない。哲学が必要であるが、哲学のできる作家はわたししかいない** ので、これはまさにわたしのための仕事である。「○ ○ ○」にもある意味で哲学小説なのだが、こちらはそれほど深くない。リアリティーが必要なので、「星の王子さま」のように、宇宙を飛び回るわけにはいかない。夢の話でも語らせたいのだが、うまく入るかどうか。いずれにしても、「星の王子さま」と並行して作業を進めることで、「○ ○ ○」にもちらっと深さが盛り込めたらと考えている。

** ナルホド! たったひとりの「哲学が出来る作家」とあっては、日本文芸家協会としても余人をもって替え難い人材のわけですね。納得! 期待を裏切らぬご健闘をお祈りします。

07/08
 「星の王子さま」の翻訳はゴールが見えてきた。キツネとの会話が終わり、あとはエンディングに向けて、寂しいシーンが続く。やる気になれば一日でもできてしまいそうだが、本日は学生の宿題を見なければいけない。半分完了。

07/09
 ○ ○ さんには、新作能を書くと前に約束したことがあって、実は半分まで書いてストップしている。多忙のゆえ、せかされないと先へ進めない。半分まで書いておけば、プレッシャーがかかればすぐに書けると思っていたのだが、今日、プレッシャーをかけられたので、「星の王子さま」の草稿ができたら、ちょっと考えてみようと思う。

07/12
 大学。やや宿酔。「星の王子さま」いよいよ王子さまが死んでしまう。この仕事が終わってしまうのが寂しい。

07/13
 大学。前期の最終講義。やれやれ。大学の夏休みは長い。本日の明け方、「星の王子さま」の草稿完了。あとがきも書いた。プリントして読み始めている。大きな問題はない。というか、翻訳だから、抜本的に中身を変えるわけにはいかない。

07/14
 「星の王子さま」のチェック完了。まったく問題はない。ただついうっかりとページを余分にめくってしまうとか、まちがいがあるかもしれないので、もう一度、突き合わせをしたいと思う。

07/15
 「星の王子さま」もう一度、念押しのチェック。けっこう書き直すところがあるので、読み返してよかった。半分まで。あと一日あれば完了する。あせることはない。月曜も休日だ。

07/16
 日曜。昨日の明け方、チェック完了。ただちに入力して完成に向かいたいところだが、本日は部屋の片付け。

07/17
 月曜日だが祝日。「星の王子さま」のプリントチェックの入力作業。明け方までに終わらなかったが、本日もすたすらキーを叩いたので、夕方に完了。メールに貼り付けて担当編集者に送ったので、作業は終わった。3週間くらいかかったが、「青春U」のチェックと並行して進めていたので、それほどの負担はなかった。翻訳作業そのものは一気に進んだのだが、訳語の吟味で時間がかかった。しかし吟味を重ねたので、わかりやすく奥深い訳に仕上がったと思う。

 オリジナルソース:恣意的な歪曲がないことを確かめるため、がまんして全文も読んであげてください。
「青春小説」創作ノート後半の42006年4月
「青春小説」創作ノート後半の52006年5月
「青春小説」創作ノート後半の62006年6月
「夏休みの孫たち06年」創作ノート12006年7月


 小さい王子,石原 理通,石原書店,A5 判 21.6 cm, p.141, 2006年12月1日発行,¥1500.- +税,ISBN 4-9901934-2-3

 巻末にある「著者略歴」の文章(地名・書名は英語読みですし、サンテックスのことを「テグジュペリ」と呼んだり、風防の説明がおかしかったり等、素人並みの知識しかありません)から察するに、この翻訳者はフランス語を解せず、英語版から翻訳したのであろうと推察されます。英語版の著作権保護期間はまだ終了していませんから、著作権法上問題が残ります。

 ジャケット。黄色の星は印刷ではなく、星形の切り抜きを通して表紙の黄色が見えているのです。シンプルな構図・色とこのアイデアは(独創というわけではありませんが)、秀逸といって良いものです。ただし、そのために本体の表紙が黄色一色と呼んでも良いほどの色づかいになってしまいました。少々品格に欠けるので、時が経つとジャケットが失われ、表紙がむき出しになる例が多いことを考えると心配です。(この切り抜き部分に月か太陽を持ってくる方法もあったのではないかと愚考いたします。)

 視覚障害者向きに音声コードを組み込んだ意欲的な企画とのふれ込みに大いに期待したのですが、残念ながら翻案は極めて不出来です。
 「. . . 絵のコピーだ」(p.7)「絵をみてゾッとしたかどうか」(p.7-8)「申し訳なさそうな小さな声で . . . 」(p.11)「そんな言葉はいいから。羊を一匹描いてよ。」(p.13)「爪のある虎を連れてきてよ」(p.42)「私ね、あなたが話しかけてきたとき、それをちょうど捜すところだったのよねー」(p.43)といった調子です。誤訳ばかりか、文章の主語さえ入れ替わるお粗末さ。でたらめといって良い訳や、意味不明な箇所も少なくありません。

 B612 のバラ。「翻訳には初版本を使いました。また挿絵もすべて初版の色を忠実に再現してあります」と述べていますが、レイナル・ヒチコック版ではなく、 ハーコート・ブレイス版を使ったことはこの絵からも明白です。
 視覚障害者向けに、各ページに特殊な音声コードが印刷されています。右下の四角いドットの塊がその PS コード。専用器具(別売り。¥99,800.-)を使えば、読み上げ音声を聞くことができます。しかし、問題があります。
 まず第一に、音声化の観点からすると、この翻案の文章は長すぎます。単語の選び方も、聞き取りに適したものではありません。
 第二に、PS コードシステムはまだ未完成なようです。音声化技術の未完成さや器具が高価なことと相俟って、この不出来な翻案に PS コードを付加する意味はなかったと悔やまれます。改行の処理や、点字化への完成度をもっと磨く必要があるようで、いっそうの努力をお願いしたいところです。将来は有望で、視覚障害者にとって希望がもてるシステムだと思われますから、ぜひがんばって欲しいものです。(ただし、文学作品に関しては質の良い朗読が望ましく、PS コードが出る幕はないと思われます。)

 「訳者略歴」に3ページも費やし、カラーの顔写真までついていますが、読者は望まないでしょう。金さえ出せば掲載してくれる「紳士録」や、会員にしてくれる名ばかりの「学会・協会」も存在します(新興宗教やいかがわしい団体の集金業務が多いようです)。そもそも「バイオロジカル」な業績がおありになるとも思われません。肩書きを振り回す人を私は尊敬出来ません。
 「訳者後書き」で「文章を耳から取り入れる場合に、その文章に他人の感情が入ってはいけません。感情は読む人が自分で感じるものです。ですから、朗読という朗読者の個性が入り込んでいる文章を聞くだけでは、感性が阻害されるのです」と述べられますが、翻訳段階で避けられない「個性」をどうなさるおつもりなのでしょう。そして、個性以前の、翻訳の誤りや不出来は?
 機械音声化優越の主張に説得性がなく、音声化システムがまだ未完成であること、加えて、翻案そのものが水準に達していないことを総合すると、本書は企画倒れの失敗作と断ずるべきであると思います。


 漫画でよみがえる 星の王子さま,たまだまさお:絵, pp.160(ただしページ番号は無し),A5 版 21 × 15 cm, PHP 研究所, 900円 + 税,発売:2009年3月12日, ISBN-978-4-569-70641-2(4-569-70641-X)

 『蘇る』と言うからには Le Petit Prince はあの世の住人になっていると言うことになります。物語の結末ではその通りなのですが、これが書名だとすると問題が残ります。だって、世界中を席巻していると言って良いベストセラーなのですから(「漫画でよみがえる」はシリーズ名であることが判りました)。帯には「漫画だから泣ける!」と理解不能な文字が躍ったりしていますが、これは(「蘇る」も含めて)営業畑の人が勝手に書いたものでしょうから、本体の評価とは別物として扱うことにします。
 一応、話の筋を忠実に再現しています。中には、バオバブの種が毒を出したり、毒蛇に走り寄る際にピストルを持っておらず石を投げようとしたり、という原作と異なる点もありますが、まあ、ご愛敬でしょう。「砂漠の花」のように、省かれたものもあります。
 誤訳もあります。「人間と花がねぇ・・・・・・ でも地球ではいろんなことが起こるからな」の 『でも』は逆の意味を持たせてしまう接続詞になります。
 最後に「五億の鈴」と題して、夜間飛行のシーンを潜り込ませ、原作の結論部分をまったく別のものにしてしまいました。読後に遺す余韻を変えてしまったため、話が別物にすり替わってしまったのは惜しまれます。


 星の王子さま(文庫版),たまだまさお:絵, pp. (ページ番号無し),文庫判 16.8 cm, PHP 研究所, 500円(税込み),発売:2009年7月2日, ISBN-978-4-569-67325-7(4-569-67325-2-)

 上記の文庫版です。


 まんが 星の王子さま,漫画:藤井竜二, 翻案:桂浜文斗, pp. 235,A5 版 21 cm, 英光社, 1,260円 (税込),発売予定:2008年09月16日(⇒ 20日),ISBN:978-4870971028

 漫画(当節はコミックスと呼ぶようですが . . . )のことは詳しくないのであまり自信がないのですが、235ページものペーパーバック本は、かなり立派なボリュームなのではないでしょうか。何しろ、空白だらけに加えて、かなりの挿絵を含んだ初版本が(英語・フランス語共に)僅か93ページしかないのですから。
 文字を絵に換えるとこんなにもボリュームが増えてしまうという、好例となるでしょう。それでも尚、文章が持つ深みが殆ど欠落してしまうという、ひとつの例でもあります。
 まったく別物になってしまったテレビアニメーションや、似ても似つかない幼児向けのカードボード版は、Le Petit Prince そのものを貶める役割しか果たしませんでした。それに較べればこの漫画本は、まだましな存在ではあります。しかしやはり、物語の筋を追うだけで、小説の深みを表現することは望み得ないものとなりました。限界なのでしょうね . . . 。

 原書では、6年後の回想にただ一度だけ現れる「正装した王子」(マント・着剣)が、全巻の半数近くに現れるのは驚きです。「つないでおく網(あみ)」や「机」(p.28)は、「綱」「杭」の誤りであることは明白ですが、生まれて初めてこの漫画を与えられた幼児・子どもにはそれは判りません。バオバブが4本になっている(p.45)のも問題です。「花弁三枚の砂漠の花」が4枚の花弁を持っている(pp.132-133)のも正確ではありません。もっと問題なのは「一緒に遊んで」と持ちかけるのが、王子からキツネに変わってしまっている(p.143)ことです。これでは、物語の重要な筋立てが逆転してしまいかねません。もう少し原作を注意深く読んで、それに忠実な作品にして欲しかったと思います。


 星と砂漠と王子さまと, 飯島 勉 訳,p.170,20cm(四六判), 文芸社, 1,365円(税込),発売:2007年12月15日,ISBN-13:978-4-286-03985-5, (ISBN-10: 4-286-03985-4)

 標題は内藤 濯さんの「星の王子さま」と肩を並べる思い切った意訳です。“Prince”が依然として「王子さま」である点も同じです。
 表紙を開きフリーエンドペーパーをめくると、カラー口絵「王子の肖像」が現れます。本書唯一のカラー挿絵なのですが、驚いたことに旧ガリマール系の「ニセモノ挿絵」なのです。他の挿絵もすべて旧ガリマール系です。【この挿絵に関しては、著作権上の問題も残ります。】 更に、テキストも旧ガリマール系で、たとえば、「小惑星三二五一」の誤りがそのまま残っています。とても2007年12月に発行した本とは信じられません。
 日本語にも問題があります。「小灌木 *」(p.29 他) はいただけません。また、「乗客たちを、千人ずつの小包に仕分けしているんだ。. . . 」(p.125) と、内藤 濯さんの誤訳をそのまま踏襲しています。全体の日本語訳そのものはそんなに悪くはないのですが、フランス語の理解そのものに若干の問題がある、と心配せざるを得ません。

*  「灌木」は、成長しても概ね2メートル以下にしかならない、幹と枝がはっきりしない木本【もくほん(対立語は草本:そうほん):幹や枝が木質の】植物を言います。大中小を区別することはありません。
 特筆すべき点もあります。ヘビとの会話中に出てくる“Terre de granit”を「非人情な地球」と訳していることです(p.104)。【“Terre”と大文字で始まっていますから、これが「地球」を表すことはまったく異論がありませんし、他の訳者も皆そう訳しています。】 この“granit”(花崗岩) は、“apprivoiser”(因みに、この訳者も“apprivoiser”=「飼いならす」派です) と並んで、私が解釈・翻案に苦しんでいる言葉なのです。「非人情」か「不人情」かという問題はこの際おくとして、“Terre de granit”は、“Terre des Hommes**”を横目でにらみながら解釈すべきものである可能性を秘めていますから、“granit”を「花崗岩」「岩」「石」としない翻案は、この言葉を看過しない、訳者の優れた感性を表していると考えられます。
** 邦訳「人間の土地/人間の大地」。私は、東欧圏での翻案「人間の星/人民の惑星」のように「人間たちが住む地球(という名の惑星)」と解釈すべきものと思っています。サンテックスが残した落書き等からも、その考えは補強・支持されます。
 「“死火山”を“スツール”代わり」(p.107) は、若い人には受け入れられないのではないでしょうか。「念のために言いました」(p.107) もこれでよいかどうか . . . 。転轍夫との会話、「(人形で)時間つぶしをする」(p.127) は問題がありますが、「あの子たちは見込みがあるよ」(p.127) は、面白い翻案であると思います。
 「疲労がね . . . 」(p.158) ,「丸いガラス器」(p.159) 等々、首を傾げる翻訳は随所にあり、もう少し練る必要があろうかと思われます。

 残念なことに「あとがき」で、「ものごとの大切さを瞬時に見透かしてしまう純粋な目を持つ子供ならいざ知らず、」と馬鹿げた固定観念を披瀝します【卑見については「子供は純心な天使」なのか?おとな批判? 星巡りの失策 をご覧下さい】。このように「心の不純なおとなの濁った目」では、Le Petit Prince の真髄をつかみ取ることは心許ないのではないでしょうか。


 音楽朗読劇星の王子さま,近藤 浩章 訳・音楽,岡崎 裕美 朗読・歌,東京新聞出版局,判 18.5 cm, p.98 + 2, CD 付き, 2007年8月8日発行,¥2,190.- +税,ISBN 978-4-8083-0879-7

 CD に納められた語りと歌曲がありますから、それぞれに検討・評価する必要がありましょう。
 まずは翻案。分量を減らすために、ストーリー内容をかなり省いてはいます。しかし、朗読というと、ともすれば「子ども向き」の読み聞かせになりがちなのですが、この翻案にはそのような、原作を貶める曲訳はありません。奇を衒った所もなく(その分、これといった特徴がありません)、正統派と呼んで良い日本語訳に仕上がっています。
 あまり個性的な箇所はないのですが、強いて挙げれば、「ニワトリ探してんの?」「違うったら、. . . . 」(p.67) といった会話部分等に、ちょっぴり他との違いを垣間見ることができるでしょうか(朗読なのですから、もうすこし徹底して会話を練り上げた方が良かったのにと悔やまれます)。【因みに個性といえば、“Terre de granit”は「ゴツゴツした地球」(p.57)と訳しています。】
 誤訳・余計な付け加えもあります:「草の中に埋もれて泣きました」(p.63)「木の幹の陰から用心深そうなきキツネが」(p.64)「誰にも飼いならされていない綺麗なバラたちが」(p.81) 等がそれです。読者に誤解を与えますし、益のない言葉なので、もっと素直に翻訳するべきでしょう。
 朗読という観点からは、息継ぎが難しく、明瞭な発音が困難な言葉選びも少なくありません。たとえば、「大人の人たちに諦めさせられて以来」(p.6) は、朗読向きではありません。翻案を音読してみる努力を怠っている、と判断せざるを得ないのです。

 その、出来の悪い箇所を含んだ文章や歌詞を、岡崎 裕美 さんは頑張ってこなしています。ひとつだけ難を言えば、王子の語りが、声を張った舞台の発声法になってしまい、もっとしんみりと聞かせなければならない部分で、わざとらしさが鼻につくことです。一人で何役もをこなすためには大げさな個性化も必要なのでしょうが、物語の本質に関わることなので、些か残念な欠点になってしまいました。
 原則として各章に歌曲が用意されており、ワルツであったり、タンゴ仕立てであったり、はたまたバラードであったりと、悪くない意匠の凝らし方です。岡崎さんの歌声も、良くその雰囲気を捕らえています。

 歌詞について、ひとつだけ異議があります。「前置き」代わりと「第一章」の終わりに繰り返される ♪大人は誰もが昔は子どもだった♪ の第5行「子どもは誰でも大人になれる」は、見過ごすことのできない迂闊さを露呈してしまいます。サンテックスの時代はもちろん、現代でも、莫大な数の「子ども」が、あるいは餓死し、あるいは病死し、そしてあるいは虐殺されて、大人になれない恨みをのんで一生を閉じる(あるいはまた、売春婦や強盗としてしか生きて行く道のない「大人」になる宿命を負うという)悲惨な現実を肝に銘じることなくしては、「星の王子さま」を理解することは叶いません。「バオバブには気をつけるんだゾー」と『子どもたち』に向かって叫んだサンテックスの思いは、一体何処に行ってしまったのでしょう。上記の1行を許すならば、Le Petit Prince は「夢見心地の子供向けの童話」であるという解釈を受け入れることになってしまいます。九仞の功を一簣に欠く、返すがえすも残念な、暢気すぎる一節であるというべきではないでしょうか。

   

当時の世相を解って戴くために、サン・テグジュペリ作品選集のひとつから、
挿絵を二駒例示します。絵は後世のもので、画家は Gyula Konkoly です。 
(Éditions Rombaldi, Lettre a un Otage/Un Sens a la Vie, 1979)


星の王子さま,奥本 大三郎 訳,47 p.,B5変型判 21.3×19 cm,白泉社, ¥1,260円(税込),発売:2007年10月17日,ISBN:978-4-592-76121-1

 予想外の巨人の参入です。「虫の宇宙誌」「ファーブル昆虫記」「楽しき熱帯」等で有名な 奥本 大三郎 氏です。選び抜いた(事実、思いっきり省いてあります)エピソードを小さな子どもにも読みやすく書き起こした絵本版とのこと。「子ども向き」を標榜するだけあって、全ての漢字にはルビが振ってあります。
 星巡りが省いてあるのは、大いに評価できます。ない方がよい挿入エピソードで、取り除くとすれば、真っ先に外すべき部分だからです。その一方、沙漠で出会った「花弁三枚だけのシンプルな花」が省かれてしまったのは残念です。小学校高学年や中学生になってからもう一度読み返す深みを維持するためには、残すべきであったと思います。同様に、王子さまが死んで行く場面が省かれているのも、賛成できません。たとえ子ども向きであろうとも、死という厳しく厳粛な問題を避けるのは、安直で後ろ向きな態度といわざるを得ません。これでは、Le Petit Prince の価値を酷く下落させてしまいます。
 「子供のためのあとがき」という、2ページのあとがきがあります。ウワバミの解説は、若干問題がありますが、「子ども向き」に書かれたものである以上、この程度で切り上げるのは仕方がないことでしょう。訳者は「三種類の言葉を覚えて貰いたい」といいます。「子供と大人(王子さまとパイロット)の言葉づかい」「恋人同士(王子さまとバラの花)の言葉づかい」「子供とその友だち(王子さまとキツネ)の言葉づかい」です。これは、この本の非常に優れた観点であると思います。
 読み聞かせと、それに続く自力での読書年齢までを含めて、幼児用の翻訳として、極めて質の高い翻案です。これを読んでしまうと、ガリマール社が出版したあのカードボード版が如何に質の低いものであるかを、如実に痛感せずにはいられません。


 星の王子さま,訳:浅岡 夢二, 絵:葉 祥明, pp. 99,A5 版 21 × 12.9 cm, ゴマブックス, 1,680円 + 税,発売:2008年11月10日, ISBN-10: 4777111059(ISBN-13: 978-4777111053)

 表紙はこれで構いません。アイキャッチとしては、充分なものです。しかし、本文や挿絵には問題があります。
 私は、葉 祥明 氏の描く絵は素晴らしいものだと思っています。たとえば、「地雷ではなく花をください」等は、正・続共に心を打つ作品です。しかし、今回の作品は評価する価値もありません。中の挿絵は本当に酷いもので、この物語をブチ壊してしまいます。訳者はこの挿絵を最高級の褒め言葉で持ち上げますが、本当にそう思っているのだとしたら、Le Petit Prince をまったく理解できていません。
 この作品にあって、挿絵は極めて重要です。本文・挿絵、合わせて86ページに過ぎない原書が、200ページ以上の内容を持ち得る(読者次第です)のも、あの挿絵のおかげです。絵は、ときとして、本文以上にものを言います。基本的には「あの絵でなければ駄目」なのです。【「あの絵」以上の挿絵が出現することもあります。たとえば、ロシア語版の挿絵:井戸の水を飲む王子。本当にあの物語を理解して、サンテックスが描き落とした挿絵を見事に補っているのです。(この場面は非常に重要で、挿絵なしで済ませるべきものではありません。彼がなぜ描かなかったのか不思議なのですが、込めた思いが強いだけに、それを具現する程の挿絵を描ききれなかったのでしょう。)】

 さて、本文の方ですが、こちらも問題山積です。まず、未だにガリマール旧判の誤りをそのまま踏襲しています。<小遊星 325 I>【p.15】, 四十三回【p.25】がそれです。これは話になりません。更に、翻案は;(戦争中の)フランスに住んでいて【献辞】, インナー・チャイルド【献辞】, これはヒツジじゃない、ヤギだよ【p.12】, 毎朝、トイレに行って、いらなくなったものを体から出すでしょう【p.22】, でも、残念ながら、いまの科学技術ではとてもそんなことはできません【p.24】, 花が流し目をしながら答えました【p.30】, わしは、科学的に統治しておる【p.41】等々、賛成できない訳文が散見されます。
  訳者あとがき【p.100-101】は読み流すしかありませんが、「訳すに当たってはこのお話を、もしサン=テグジュペリが日本語で書いたとしたらどうなるだろうか、ということを想定しながら訳してみました。」という言明には、残念ながら、とても賛意を表すわけには行かない出来です。


星から来た王子,芹生 一 訳,185 p.,B6版 20 cm,海苑社,¥1,000.- + 税,発売:2009年10月26日,ISBN:978-4861640773

 コピーライトに関する記述がないので、原作はパブリックドメインにあると判断しているのでしょう。もちろんそれは正しいのです。しかし、挿絵は(他の新訳本の殆どがそうであるように)コッペパン系ですから、ガリマール社の著作権が生きています。許諾を得ているのでしょうか?(レイナル・ヒチコック版から採っていれば、問題は軽減されたことでしょう。)
 翻訳の正確さには問題山積です。少しだけ列挙すれば;
  「子どもたちには申しわけないけれど、わたしはこの本をある大人に捧げようと思う。」(p.5) ⇒ 主文と副文が逆転している。⇒文のニュアンスが変わってしまう。
  「きみたちの知らない世界」(p.7) ⇒ 誤訳/意訳
  「彼の姿からふしぎな光が射したような気がした。」(p.19) ⇒ 誤訳
  「彼はまた、うれしそうに笑った」(P.22) ⇒ 誤訳
 のっけからこのありさまですから、誤訳・問題訳の指摘は以後省略です。

 訳注 (pp.160 - 196) に続いて、「訳者あとがき ― 解説をかねて」 (pp.170 - 182) が設けてあります。事実関係をはじめ問題があり、主要な点を列挙すれば以下の通りです。
  「『長編小説』. . . . 『人間の土地』を発表」(p.171) ⇒ 『人間の土地』は小説ではありません。
  「二十歳のとき『徴兵』によって」(p.171) ⇒ 『志願』
  「最初の勤務は『アフリカ路線』の操縦士」(p.171) ⇒ ツールーズで整備訓練から出発。操縦士としては『ツールーズ/アリカンテ』(フランス - スペイン)間の郵便輸送
  「連日出撃し、『三週間のうちに乗員の四分の三を失う』絶望的な」(pp.173 - 174) ⇒ 他の箇所でも指摘しているとおり、事実と異なります。
  「『予備役』将校だった . . . . 動員を解除されました」(p.174) ⇒ 招集された時点で『現役』です。予備役が『動員解除』されることはあり得ません。
  「 . . . 日本がアメリカとイギリスに宣戦すると . . . 」(p.175) ⇒ 日本がイギリスに宣戦布告した事実はありません。
  「この物語の構造はけっして『複雑ではありません』。」. . . . 「物語の筋立てはけっして『複雑ではなく』、むしろ簡単ですが」(pp.179 - 180) ⇒ 言うまでもなく『構造』と『筋立て』は違います。『筋立て』が、むしろ簡単であることは、その通りです。『構造』を簡単とみるか否かは、見解の相違と言ってしまえばそれまでですが、私は賛成しません。訳者の読解力不足を露呈しているに過ぎないと思います。
  「この物語の原文は、小学校中学年の生徒にもじゅうぶん『理解』できるやさしい言葉で」(p.182) ⇒ 日常会話に用いられるような『やさしい単語』であることと、『理解できる』こととは別物です(e.g. "apprivoiser")。
 なぜ「星から来た王子」という題名を選んだかに関して説明しています (pp.183 - 184)。しかし、『 prince 』を『王子』と訳すべきか否かについては、まったく考慮していないようです。随所で論じているように、私は『誤訳』であると思っています。

 原文の趣意に対する忠実さという点から見る限り、あの内藤訳よりはマシだと思うのですが、さまざまな和訳が出そろった今となっては、上位とは言えない出来栄えなのです。


星の王子さま,管 啓次郎 訳,西原 理恵子 絵, 172 p., 新書版 17.8 x 11.4 x 1.2 cm, 角川書店, 売価:¥620.-(税別), 発売:2011年6月15日, ISBN:978-4-04-631163-4

 帯に「西原理恵子の描きおろしイラストで贈る 全く新しい星の王子さま!」と謳います。カバーも内容も、一見、辛酸なめ子 訳 を思い出します。それは挿絵のせいなのですが、文体はあまり正調とは呼べません。すべての漢字にルビが振ってあるのは、三田誠広 訳 に似ています。そして、訳の内容は、(諸訳が出揃った今となっては)取り立てて言うべき点がありません。強いて挙げるならば、主人公が「ちび王子」となっていること(ただし、原文に忠実ではなく頻出)と、その口調がぶっきらぼうなことでしょう。
 漢字すべてにルビを振ったのは、子供を意識してのことでしょうから、大酒のみが「陰々滅々」と答えるのは、理解に無理があるように思われます。誤訳もあって、灌木の「しげみ」・バオバブとの「攻防」・ぼうしを「落っことす」等はいただけけません。また、Je ne puis pas le savoir. を「それは知ることができない」と訳すのは間違いではないのですが、直訳過ぎて、日本語としてはどうかと思います。同様に、meeting を「政治集会」と言うのは、辞書通り(しかも、状態としてもそれに近い)なのですが、意味を狭めすぎではないかと思われます。
 総じて、この時期、新たに出版する意義は薄いように思われるのですが . . . 。「今頃になって、なぜ?」という疑問が拭い去れません。


星の王子さま,管 啓次郎 訳,172 p., 文庫版 14.9 x 10.6 x 0.8 cm, 角川書店, 売価:¥476.-(税別), 発売:2011年6月25日(実際の配本は28〜29日), ISBN:978-4-04-298219-7

 帯に謳うのは「<移民のストリート・キッド>という斬新な解釈と、画期的新訳でよみがえる、永遠の名作の心」。文章は上記と同じ(ただし、漢字にふりがなは振ってありません。「訳者あとがき」も別物です)。また、フォントは異なります。挿絵はコッペパン系。同じ訳文なのに、挿絵やフォントが異なると、作品の「感じ」が一変します。タイトルページの比較によって、その「感じ」をつかんで頂きましょう。

 

 「訳者あとがき」の冒頭に、「物語を読むときの唯一の約束、それはそこに書かれたことが『すべてほんとうにあったのだ』と考えることではないでしょうか。」と述べます。そんな読者が存在したら、「精神異常者」の烙印を免れません(「あとがき」を読み進めば、訳者もそんな事は考えていないことがはっきりします)。「これは. . . . . 移民のストリート・キッドの話じゃないか!」と書きますが、訳文からはそのような匂いを感じ取ることはできません。訳者がそうした「解釈」をするのは自由ですが、訳文にそれを反映できていないのならば、「取って付けた」あとがきは、ない方がよいような気がします。


かわいい仲間 その翻訳覚え書き,大橋 正宏 訳, 93+6 & 138 p., B5版 25.7 x 18.2 x 2.9 cm, ブイツーソリューション(名古屋)【発売:星雲社(東京)】, 売価:¥3,000.-(税別), 発売:2010年12月24日, ISBN:978-4-434-14972-6

 大型で分厚い、立派な本です。本の構成から言っても、新訳と言うより、翻訳に関しての単語・文の注釈が主要なように見えます。表紙やジャケットにも、絵は用いられていません。ここでは一応「新訳」として検討を加えることにします。
 文字が大きめなので、行が詰まって少々読み難い感があります。また、デス・マス調の統一や、常識的な句読点の用い方とは異なった点がありますし、漢字にするかひらがなにするかの判断基準も首を捻るものがあります。出だしからして「あれはわたくしが六歳のときでした、ある日、あっとあどろ(驚)くはんが(版画)に出っくわした。」という次第。どちらかというと読点が少なすぎる例が多く、たとえば「こう言うわけでその夜から砂地の上で眠りにつきましたがそこはどんな人里からも遙かに 1,000 キロメートルはへだ(隔)たっていました。(p. 9)」と、全く読点がありません【「キロメートル」と言う訳し方には「翻訳覚え書き」に注釈があります(p. 19)】。思い切った意訳も多く、「 ― 「あぁっ、」と叫んでその蛇が身をよじ(捩)った。(p. 58)」等々、随所に認められます。
 総じて、翻案は失敗作と断じて良いでしょう。


星の王子さま,永嶋 惠子 訳, 239 p., 四六版 18.8 x 12.8 x 1.4 cm, KK ロングセラーズ, 売価:¥1,000.-(税別), 発売:2013年03月01日, ISBN:978-4-8454-2275-3

 一番大きな特徴は、2種類の大きさのフォントを使っていることです。大きな方のフォントは、高さにして1/3大きなだけですが、面積で比較することになりますから随分大きなフォントに見えます。強調したいことをフォントを変えて表現する新しい試みで大いに評価できるのですが、大きなフォントを使った内容が必ずしも重要なこととは限らず、新案の上滑りに終わってしまいました。
 「レオン・ウェルトへの献辞」を読んでも判るように、随分思い切った省略があります。そして誤訳や曲訳も。例えば、第9章(p.48)、「バオバブはたった一本だけになってしまい、さびしそうな顔をしていた」は、誤訳であるばかりか、バオバブが一本星に残ってしまい、此の後の解釈に破滅的な意味変更を強いるのですが、訳者はそれに気付かないという、決定的な曲訳の例となります。この種の省略・誤訳・曲訳は他の部分にも散見されます。
 例の apprivoiser は、「こころを通わす」(p.159)「友だちになる」(p.163)「仲よくなる」(p.168)と使い分けをしています。
 一読して思い出したのは、辛酸なめ子訳です。あれほど砕けた口調ではありませんが、話の筋は追いながら、思い切った意訳を試みる結果となりました。

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 むかし、ウラジミール・ナボコフの「ロリータ」を日本語訳で読みました。読み進んで『乳房の初潮現象』という言葉に行き当たり、前に進めなくなりました。いくら考えても何のことか判らないので、仕方なく週末になってから英語版を買いに行き、該当部分を探しました。実にあっけないものでした。『おっぱいが膨らみ始めた』と訳すべき部分だったのです。訳者は意味がわからないままに辞書を引き、逐語訳で単語を並べていったのでしょう。読者はたまったものではありません。(もちろん著作権保護期間中のことです。)
 原書を読むことが出来ない人にとっては、翻訳だけが頼りです。質の良い翻訳が得られないと、原作の良さを理解することは難しくなります。他の翻訳が欲しくとも、著作権保護期間中は、どうすることも出来ません。

 内藤 濯さんの『星の王子さま』も似たような問題を抱えています。日本でやっと保護期間が終了し、待ち望んでいた新訳が続々と姿を現し始めました。サンテックスの原作を過不足なく日本語に移し替えた名訳を我々が手にすることが出来るかどうか、この半年ないし一年間、目を離せそうにありません。

 学術雑誌に論文が投稿されると、編集長は一読後、その分野の専門家数名に「査読」を依頼します。依頼を引き受けたレビュアー(レフリーと呼ばれることもあります)達は、その内容に誤りがないか・必要なデーターが欠落していないか・その雑誌にふさわしい質を持っているか等を審査します。クリティカルリーディングと呼ばれる厳しい査読です。その結果、掲載の可否と付帯意見を編集長に送り返します。「この結論を主張するにはデータ数が不足であるから、実験を追加してデータ数をもっと増やす必要がある」・「使用した統計学的検定法は、このデータ群には不適である。○○の方法で検定をし直すべきである」・「この部分の言い回しは、読者に誤解を与えかねない。主張を絞って明確な表現に書き換えるべきである」・「××の論文の結果と矛盾する。著者はこのことについて明確に意見と主張をしなければならない」というように、厳しい付帯意見が付くものが大半です。編集長が「掲載可」と判断した場合も、そのまま採用されることは極めて稀で、たいていの場合は、追加や訂正を求められます。編集長から原稿を送り返された投稿者は、付帯意見を取り入れて原稿を書き直すか、再投稿を諦めるかします。
 一切は匿名で、編集長以外、査読者が誰であるかは明かされません。査読に対する謝礼や賃金は支払われません。一流の学者として査読者に選ばれたことを名誉とし、科学者として当然の義務を果たすだけのことです。こうして学術論文の質の高さが保証されているのです。
 書評も同じであると私は思います。何の権限もありはしませんが、厳しい書評による圧力が、出版物の質を維持するのに役立つはずです。気ままな感想文にするつもりはありません。

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