潮溜り

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サンテックスと
そのゆかりある人々が生きた時代

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Consuelo
サンテックスの紅いバラ

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Consuelo de Saint-Exupéry
La Rose du Petit Prince
Paul Webster 著
 情熱のひと。言うまでもなく、ただ一人のサンテックスの正式の妻。しかし私には、「妻」ではなく「永遠の恋人」のように思われます。


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まどろむコンスエロ
 サンテックス撮影と伝えられています。


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Oppède
Consuero de Saint-Exupéry 著
 初版第1刷(Brentano's Inc., 1945)の表紙。

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見返しに描いた絵。

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見返しの裏に透けてしまった裏絵にペン書きで線を書き加えてもう1枚の別の絵にしてしまった。コンスエロの茶目っ気が伝わる。

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コンスエロ・ド・サンテグジュペリ
1957年8月

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タイトルページ。

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いまは亡き夫、サンテックスへの献辞
わが夫
アントワーヌ・サン・テグジュペリ
1944年7月31日
フランス上空で任務遂行中
行方不明

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19枚の彼女自筆の絵が随所に配されている。これは第10章。


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Kinfdom of the rocks
Memories of Oppède
Consuero de Saint-Exupéry 著
英語訳初版第1刷(Random House, 1946)。


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B夫人
サンテックスの白いバラ

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Antoine de Saint-Exupéry
Pierre Chevrier 著
 Pierre Chevrierという男性名のペンネームですが、筆者はあのB夫人です。サンテックスへの想い黙し難く、彼の伝記を世に出しました。不倫と非難されてもしかたのない間柄でしたから、存在を世に知られては、せっかく国のために命を捧げたとされている彼の名誉に傷を付けかねません。本名はおろか、(興味本位で筆者の正体を詮索されかねませんから)女性名を使うことさえはばかられたのです。
 表立って連れ添うことは叶いませんでしたが、サンテックスと彼女との絆の靭さを思えば、B夫人こそがサンテックスの本当の「妻」だったと言うべきではないでしょうか。彼の死後、遺言によって、出版権その他作品の管理は彼女が一手に引き受けることになりました。最近でも、サンテックス協会に寄せられる質問のうち、彼の私的な部分に関する内容は、すべて彼女が直接返事を書いていたということです。

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ルイーズ・ド・ヴィルモラン
サンテックスを翻弄した白百合

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ルイーズ ルイーズ・ド・ヴィルモランの生涯
ジャン・ボトレル 著/北代 美和子 訳
東京創元社
 サンテックスの回りには女性の影が絶えたことはなく、貴族階級出身者も多いのですが、その中でも極め付きの一人、絢爛華麗な生涯をほしいままにした女性です。(母親の血を色濃くひき、成熟してからは世界中の有名紳士や王族を総なめにします)。
 サンテックスの婚約者、と言うよりは、彼女の多くの婚約者の一人がサンテックスでした。サンテックスより2歳年下(1902年4月4日生まれ)。僅か半年で婚約を解消してサンテックスを捨て去り、彼に深い心の傷を残しました。親の目を盗んで婚前旅行までしたのに思いを遂げることはさせず、サンテックスを翻弄したことで、バラのモデルの一人に数えられます。(見かけとは裏腹に、若いときから男達を手玉にとるしたたかなあばずれと思われていますが、サンテックスとつきあっていた頃は意外にも身持ちは堅く、最初の夫ヘンリー・ハントと1925年3月7日に挙式した段階では処女だったそうです。後年「スケコマシ」でならすサンテックスも、堅気のお嬢様を相手にするにはこの時期まだ修行不足の駆け出しで、よいようにあしらわれていたということでしょう。)

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Mermoz 1901-1936
大空の英雄

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ICARE メルモーズ特集 I & II
 Mermoz といえば、サンテックスなどは足元にも及ばない大空の英雄なのです。

 格好良い美男子でしたから、生前の人気たるや俳優並み。水泳パンツ一枚で隆々たる筋骨を見せつけている写真を眺めると、若い女性達からどれほど崇められたか想像に余るものがあります。
 サンテックスとは1歳違いですが、飛行士としての格は、(アラス偵察行以前の、作家として名を売っただけで)どこの馬の骨とも知れなかったサンテックスなどはその足元にも及びません。サンテックスは2000年になってやっと飛行場や通りの名前を貰いましたが、メルモーズの名を冠した広場や通りは古くから各地にあり、リヨンの地下鉄がメルモーズ通りに達したときは早速駅の名前になりました。(Mermoz-Pinel 駅。両方とも街路の名前です。Mermoz は Avenue、Pinel は Boulevard で、後者の方が道路としては格上ですが、交叉点の名前を冠した駅名は Mermoz が先に来ました。もちろん、通常は略して前半だけが、つまり、Mermoz が使われます。)
 50フラン札の図柄案も、実はメルモーズが一番人気で、サンテックスをはるかに引き離していました。それなのに、彼が晴れの表舞台にでることがついぞないのには理由があります。「十字砲火団*」という極右団体を主宰する、親ナチス家だったのです。フランスでは決定的な傷跡になります。どんなに人気があろうと、国家の顔でもある紙幣の図柄にはなれません。

* 「十字砲火」は Fue Croisés です。それに対して、メルモーズの団体名は Croix de Feu といい、直訳すれば「火の十字架」または「燃え盛る十字架」です。しかし、この団体が親ナチの戦闘的な極右団体であったことや当時のフランスの政治状態を考慮すると、「十字砲火」と訳すべきものと考え、敢えてこのように訳しました。

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Adèle Breau
サンテックスの英語教師

 

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Saint-Exupery in America 1942-1943
A Memoire の背文字
 サンテックスは、英語の読み書き会話ができませんでした。アメリカで生活しているというのにそれでは不便ですから、周りの人々は英語を習うよう交々説得を試みました。サンテックスは応じようとしませんでしたが、コンスエロが画策して、高校教師をしていたうら若い女性を英語の家庭教師として雇い入れました。サンテックスの好みのタイプではなかったので、彼の毒牙にかかることはありませんでした。(もしそうなったら、コンスエロからくびにされてしまったことでしょう。)
 英語を習う気はなかったし、好みの女性でもなかったので、あてが外れたサンテックスは彼女をコンスエロに押しつけてしまいます。彼女、Adèle Breau はロングアイランドのサンテックスの借家に出入りし、Le Petit Prince が書き上げられる期間を通して、サンテックスを観察することになります。

 

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表 紙
 表紙には

 

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裏表紙(部分拡大)
 裏表紙には

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SMARA

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 SMARA は地名です。サンテックスが飛行場長を務めたキャップジュビーはスペイン領 Rio de Oro(黄金の川)地方の海岸部にありました。

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 SMARA は、その Rio de Oro の内陸部にあった現地部族の“幻の都市”でした。モロッコ南部を出発してその SMARA まで、陸路 1400 km の探検を企てたフランス人がいました。名を Michel Vieuchange といいます。2か月ほどの探検行の帰路、往路とは異なった行程を選んでフランス領まであと僅かという地点、Agadir で赤痢にたおれて世を去りました。1930年11月30日のことでした。その死を記念して、弟(兄?)Jean Vieuchange が探検日誌を出版しました(1932年)。その1冊がサンテックスに献本されたのです。つまり、ここにお見せするこの本は、少なくとも一度はサンテックスが直接手に取った本そのものなのです。
 サンテックス本人による書込みの類はありません。1932年はサンテックスにとっても大変な厄年でした。この本をじっくり読んでいる暇は、彼にはなかったかも知れません。

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表 紙
 

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サンテックスへの献辞
à Monsieur A. de Saint Exupéry
en Mémoire de mon frère,
témoignage de ma
sympathique admiration.
Jean Vieuchange
A. サンテグジュペリ氏へ
我が兄(弟)の想い出と
心からの敬意を込めて。
ジャン・ヴューシャンジュ

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著者写真とタイトルページ
 

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SMARA のパノラマ写真
 ヨーロッパ人が初めて目にした SMARA のパノラマ写真。

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Le Baiser à Consuelo
曝露小説

 

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Baiser à Consuelo
 サンテックスは救いようのない“女たらし”でした。サンテックス程ではないにせよ、コンスエロの方も「恋多き」と枕詞がつく“尻軽女”でした。経済観念のなさと併せて、「割れ鍋に綴じ蓋」の夫婦だったのです。
 1935年(コンスエロと別居した年です)、Michel Georges-Michel の筆になる"Le Baiser à Consuelo"という小説が Baudinière 社から上梓されました。Consuelo は作中の女主人公の名前ですが、夫がアフリカ路線の操縦士であるという設定と相俟って、モデルが誰であるかは疑う余地のない配役で、夫婦の実生活が赤裸々に曝露されており、彼等の伝記を調べる上で参考になるほどの内容なのです。
 題名を直訳すれば「コンスエロへの接吻」ということになりますが、そんななま易しいものではありません。そもそもフランス語では、2種類の“キス”が区別されます。ひとつは“embrasser”(原義は「抱きしめる」)といい、親しいもの同士が出会った際に、肩を抱き合い頬ずりをします。男女であれば、女性の方が“チュッ”と唇を鳴らして空キスをします。単なる挨拶で、性的な意味はありません。“baiser”は、それとは異なり、唇を相手に押しつけるのです。
 儀礼的な baiser もあります。それ相当の身分の男性が、御婦人に会ったとき、および、別れを告げるとき、女性の右手の甲に口づけをします。それを許すか許さないかは、女性が決定権を握っています。ゲーテの“若きヴェルテルの悩み”の中に、「彼女が手を差し出したので、去らねばならなかった」という一節がでてきます。「今日はここまで。もうお帰りなさい」とロッテが右手を差し出して、別れの挨拶を強要したのです。【ドイツ語ですから“baiser”ではなく“Küsse”です。ドイツタンゴの名曲「奥様お手をどうぞ」の原題は“Ich küsse Ihre hand Madame”(あなたのお手にキスできたら)といいます。「いまいちどあなたに会いたい。逢ってあなたを掻き抱き、タンゴを踊れたら!」 という意味が込められています。こうなってくると、単なる儀礼ではなく性的願望が込められますが、手にキスすること自体には性的な意味はありません。】
 この挨拶様式を除けば、baiser は極めて性的なものです。相手の唇やその他の部分を、性的意味を込めて唇で愛撫するのが“baiser”なのです。「彼女と baiser したことがある」といえば、性的関係があることの婉曲表現になります。したがって、“Le Baiser à Consuelo”を日本語訳するならば、「コンスエロとおねんね」とか、「コンスエロの味」とかといった、どぎつい【しかし表向きは、ヴェルテルの例と同じように、「コンスエロとの別れ」といった、とりすました意味にも取れる】書名になります。
 この本の出版は、サンテックスにとって居ても立ってもいられない激しい怒りと屈辱とをもたらすものでした。


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花々への接吻(女たちとの乱交)
 あまり上品な例ではないが、ある本(1932年発行)の挿し絵。baisers も fleurs も複数形(しかも、一つの花に蝶【蛇足ながら、papillon は男性名詞】が同時に/順番待ちで2頭)であるから、上のように「乱交」の含意を持ってしまう。括弧内の裏の意味が本来の表意であることは、図柄からも明らか。蝶が尾部を腹側に曲げて、交接準備に入っていることにも注意。
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