潮溜り

サンテックスと
そのゆかりある人々が生きた時代

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ネリー・ド ゥ・ヴォギュエ/B夫人
サンテックスの白いバラ
Nelly (Hélène) de Vogüé


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左から ネリー, イヴォンヌ, サンテックス。1938年(?)サン・ラザール駅にて。
ICARE No.75 p.69(部分) 

 写真掲載が、いろいろな意味でルール違反であることは承知しております。しかし . . . . . 。 ネリーの存在は世界中に知れ渡りましたから、もう『引用』が許されてもよいのではないかと(勝手に)判断して、独断解禁します。
 グァテマラでの墜落事故後、「人間の土地」執筆を開始します。病癒えて、パリへ帰国したサンテックスをサン・ラザール駅頭に出迎えたのは、因縁浅からぬこの二人の女性でした。
【上図とほぼ同じトリミングの画像が1994年発売の“Album Saint-Exupéry”, nrf, p.211 にあります。その説明には、“Saint-Exupéry, avec Yvonne de Lestrange (au centre) et une amie, à son retour des États-Unis (26 août 1939) ”とあるのです。匿名のまま、姿だけは残したわけです。人目に立つことを避け続けたネリーの、それもサンテックスと一緒にいる写真は、極めて珍しいものです。1938年なら、ネリーは「出迎え」ではなく、ニューヨークから一緒に帰ってきた可能性があります。1939年ならば、「同行帰国」の可能性はありません。撮影年はどちらが正しいのやら. . . 。】


 「誰かが伝記を書くに違いない」と信じていました。20世紀のヨーロッパ史を、陰で動かしたひとりであることは多分間違いないでしょう。場合によっては、第二次世界大戦の舞台裏(の一部)だって暴露されることになりかねません。サンテックスなどとはランクが違う人物なのです。しかし、誰かが執筆中であるという噂は聞こえてきません。秘密の塊のような人で、十重二十重にバリアを張り巡らせていましたから、いろいろな困難・妨害があるのでしょう。
 彼女の力の源が何であったのか、現在のところ全くの謎です。彼女が想像を絶する金満家であったことは事実ですが、その(ヴィシー派とドゴール派の両者に影響力を持ち、アメリカ政府[少なくとも軍中枢]をさえ動かした)隠然たるパワーは、経済力だけでは説明できません。末端のスパイが行使できるレベルとも違います。伝記が書かれるのであれば、この問題についても、是非とも詳らかにして欲しいものです。
【私は、(神話的ですらある)ある結社の関与を疑っています。しかし、根拠があってのことではなく、また、彼女が女性であり、かつ、フランス人である(この結社、人種差別・性差別が酷かった。英米系とフランス系とは些かの因縁があってしっくりとは合わない。もちろんナチ支配下のドイツ系とも。そして、婚家が厳格なカソリックの系譜に属したことも乖離に拍車をかける)が故に様々な無理が生じ、説得性がありません。国境をまたいで彼女が振るった陰の権力を、当時の白人社会で実現できるのは、この結社以外には考えられないと思うのですが . . . . 。】


Nelly (Hélène) de Vogüé

年 月 日事  項
1908.11.28Hélène Marie-Henriette Jaunez。裕福な陶器製造業者の娘として誕生。
 生家 Jaunez 家の調査をしていますが、判明しません。陶磁器で Jaunez 家といえば、本社をオランダのマーストリヒトに置いてヨーロッパ中に販売網(特に、衛生陶器部門で大きなシェア)を展開し、1958年に Sphinx 社と合併した Société Céramique 社が有名ですが、Hélène との関係の有無はよく判らないのです。
エレーヌ(ネリー)は絵を描くのが大好きで、サンテグジュペリより少し後に、同じ美術学校で学んだ。
家業に専念するため画家になるのを断念(“フランスで一番金持ちの女性”となる)。後に、フランス政界の大物らと協力して、米国におけるフランスの投資を推進する仕事に就くことになる。
1927.09.15ジャン・ド・ヴォギュエ Jean Alexandre Melchior, comte de Vogüé と結婚。嫁ぎ先は極めて峻厳なカトリックの家系であったため、(夫婦の実態がどうであれ)表立っての離婚は断じて許されなかった。これは、1年半の後、出会ってからのネリーとサンテックス両者の関係に重要な意味を持つことになる。【余談ながら、ワイン好きなら知らぬ者とてない、あの Vogüé 家である】
ジャンは、昔ボシュエ学園の寄宿生で、ルイーズ・ド・ヴィルモランのサロンにも出入りしていた。
1929.03ヴィルモラン邸でサンテックスと出会う。「南方郵便機」の原稿を読み聴かされる。【二人はイヴォンヌ・ド・レトランジュのサロンのメンバーで、この後も顔を合わせる機会が多かったと思われる。】
1931.04.11サンテックス、コンスエロと結婚式を挙げる。(挙げさせられた。母マリーの厳命。)
1932コンスエロ、ニースで重大自動車事故。サンテックス賠償金支払いに苦しむ。聞きつけたネリーが大金の提供をサンテックスに申し出るが、謝絶された。
1934コンスエロ、ディジョンで大きな自動車事故。その賠償金がないサンテックスから、借金を申し込まれる【サンテックスの「借金」は、返した例のない「寄付」である】。夕方、一緒に、リヨン駅から列車に乗った。(ネリー、手作りの弁当を持参。彼女はディジョン駅から次の列車でパリへ、とんぼ返り)。
サンテックスは彼女を "Nellie" と呼ぶようになる。以降、彼女は、彼の死後に至るまで、全面的な庇護者となった。
1935.06サンテックス、コンスエロと別居。
1935.09.04サンテックスに自家用機コードロン・シムーン C.630(F-ANRY, 7042.20, 4356)を買い与える【政府の援助やエール・フランスからの出資という名目迂回を使った】。
1935.11.サンテックス、シムーン機で地中海一周の講演・親善フライト(カサブランカ⇒アルジェ・チュニス⇒トリポリ⇒ベンガジ⇒カイロ⇒ダマスカス⇒ベイルート⇒イスタンブール⇒アテネ)。最終地アテネには、【ネリーにとって、胸を引き裂かれるほどショックなことに】あろう事か別居したはずのコンスエロを呼び寄せ。【サンテックスの手練手管か、それとも、彼一流の無神経か?】
1935.12.29サンテックス、パリ〜サイゴン間の飛行時間レース(レース締め切り:サイゴン到着 31日24時)に出発。30日未明、遭難。 F-ANRY はおシャカになった 。【報道陣とは、コンスエロと母親マリーが対応。当然のことながら、日陰者であるネリーが表に出るわけには行かなかった。(エジプト・イタリアを初め関係各国の政府・軍隊は、異常なほど迅速に捜索を開始している。実質的には最も大きな力量を発揮したであろう)ネリーの動向は、明らかにされていない。】
1936.12.08サンテックス夫妻主催の夕食会出席中にメルモーズ行方不明の報を聞く。
1936.12コンスエロ、離婚を決意するも思い止まる。
1936.09.042機目のシムーン C.635(F-ANXK, 7088.15, 4847)を買い与える。
1937.07シムーン機でサンテックスとドイツ旅行。サンテックスのヘマ(計画外の飛行場への誤着陸。別説では、禁止されている軍用飛行場上空を飛んだため)でスパイ容疑を受けるも、ネリーの(人脈による?)奔走で無事に済んだ。
1938.02.15サンテックス、ニューヨーク〜フェゴ島間の長距離飛行に出発。翌朝、グァテマラのアウローラ空港で離陸失敗事故。 F-ANXK はおシャカになった
はじめはコンスエロが看護。
1938.03ネリー、コンスエロがいなくなるのをまって【またはサンテックスがコンスエロを遠避けて】ニューヨークへ。サンテックスを付き切り看護
1938.05サンテックス、ニューヨークから帰国。【船旅・ノルマンディー号。共に帰国(?)(冒頭の写真?)】。
1939.02.サンテックス、ドイツ旅行(18日まで、自動車。ネリーも同行)。
1939.09.02フランス対独宣戦(第二次世界大戦)。
1939.09.04動員が発令され、サンテックスも招集される。【予備役将校であるから、自動的に招集される。サンテックスは(軍医・その他から「操縦士不適」の判定を受けたため)飛行教官(航法)を命ぜられトゥールーズに赴任。ネリーが、トゥールーズの飛行場群運用に絶大な権力を振るっていたディディエ・ドーラに働きかけて実現。サンテックスは「ドーラにものを頼むのはやめてくれ」とネリーに苦情を書き送った
 ツールーズでの勤務に不満。手を回して前線勤務を実現するよう、ネリーに手紙を送り、彼女はそれに応えて画策。空軍大将ルネ・ダヴェの尽力で転属。
1939.11.03サンテックス、シャンパーニュ地方のオルコントに駐留する第33偵察飛行連隊第2中隊(GR II/33)に転属。
1940.05.23サンテックス、アラスへの偵察飛行で被弾。辛うじてオルリー飛行場へ帰り着く。ネリー、パリでサンテックスと夕食。
1940.08.01動員解除でサンテックス帰国。ネリー、マルセイユに出迎え。サンテックスはアゲーに。ネリーは近くのサン・ラファエルに滞在。
1940.12.21サンテックス、リスボン出航、アメリカへ亡命。映画 Casablanca その他、当時の事情が解るメディアに明らかなように、この「脱出」は、ツテなしで実現できるものではない。誰が動いたかは極めて明らかである】
1941.10.07Hérène Froment のペンネームで、半私小説(サンテックスとの関係)を出版【下記】。
1941.12.07真珠湾騙し討ち。アメリカ参戦へ。
1942.01コンスエロがニューヨークへ来て、サンテックスと同居(ただし、初めの半年は事実上の別居)を始める。
1942.02 - 03.ネリー、ニューヨークに滞在。【スパイ嫌疑でアメリカ戦時情報局(OWI; Office of War Information。DWI; Department of War Information ということも。 CIA の前身)から監視される。現在、17ページに及ぶ旧 CIA の報告書が解禁され、閲覧可能。彼女をヴィシー政権のスパイでナチスのコラボであると名指ししている】
 アメリカ大統領(の息子【エリオット・ルーズヴェルト Eriott Roosevelt, 第3写真偵察大隊司令。サンテックスが再赴任する 2/33 偵察部隊の事実上の上級部隊】)や軍高官をはじめ、広範な人脈を通じて、サンテックスを前線で軍務に就かせるため暗躍。
1943.04.20サンテックス、ニューヨーク出発、北アフリカ戦線へ。
1943.06.25サンテックス、2/33 偵察中隊(アルジェリア、ラグーア基地)へ復帰。
1943.08.01サンテックス、着陸失敗で飛行機を大破着地後、ブレーキを作動させずに滑走路オーバーラン。オリーヴの木立に翼を衝突させたとも、ブドウ畑に突っ込んだとも言われる。機体は使用不能で廃棄された
処分不可避で精神不安定に。ネリーへ手紙を書く。
1943.08.07ネリー、アルジェ到着 (ジブラルタルからは米軍用機に便乗して、ふたたびアメリカ戦時情報局を仰天させる。アルジェでは、はじめサンテックスと同居。「城砦」原稿を読まされる)手紙が配達されるまでの所用時間から見て、知らせを受けるや即刻ロンドンを発ったはず(手紙だけでは不安で、電話もかけたのではないかと思われる)。広範な人脈を通じて、サンテックスの処分を撤回させるため暗躍。
1943.08.12サンテックス処分(無期限飛行停止=事実上の除隊・給料支払い停止)正式決定。
1943.09.サンテックス、1箇月ほどモロッコへ。【フランスへ落下傘降下してレジスタンスと合流することを考えたり、精神的な異常兆候を感づかれたりしている。新婚ほやほやのシルヴィアにも、なれなれしい手紙を書いた】
1943.11ネリー、ロンドンへ帰る(初旬)。サンテックスとは最後の別れとなった
1944.03リオネル-マックス・シャサン 大佐(Lionel-Max Chassin。1929年、ラテコエール社からブレストの航空学校へ出向受講したサンテックスの、航空術上級講座の教官だった)は、自分の指揮下にある爆撃隊( 1/22。サルディニア島 ヴィラシードロ基地)にサンテックスを配属(4月から月給支払いも再開)。
1944.05.16サンテックス、2/33 飛行中隊(サルディニア島、アルゲーロ基地)へ無許可(黙認?)復帰。
1944.07.31サンテックス未帰還。遺言により、ネリーが全作品の管理をすることに。
1948.05.01遺稿「城砦」を編集・出版。
1949.12.20Pierre Chevrier というペンネームでサンテックス伝記を出版
1972.10.08夫 Jean Alexander Melchior de VOGÜÉ 死去(伯爵。74歳)
2003.06.17死去(パリにて。93歳)【2003年3月20日、パリの Picpus 墓地に埋葬といいます。6月17日は公式受理の死亡日時(2003.06.20 付けの Le Figaro 紙に死亡記事掲載)ですから、届け出が遅れたのか、どちらかの年月日に誤りがあるのか、現時点では判りません。】


 若い魔女が、人間のゴロツキ男に恋をしてしまいました。最初は知らなかったのですが、やがて彼女の魔力に気づいた男は、いろいろなものをねだるようになりました。男に気に入られたいばっかりに、彼の要求を受け入れて次々に魔法を使い、魔女であることが周囲の人々にばれてしまいました。
 ヤクザな人生を送った果てに、男は死んで行きました。後に遺された魔女は、それでも男から離れられませんでした。彼の死後もあれこれ手を尽くして、後始末やら、男の生前の行いの尻ぬぐいやらをしてやったのです。やがて、魔法の力を使い尽くして、魔女はこの世から去ってゆきました。男を、完全には粉飾しきれなかったことに心を残しながら . . . 。
 ネリーのように、陰の世界で力を行使する人々は、(表世界の人間の目には見えないけれど)何万人もいるのでしょう。現代社会でもその実例は事欠かず、たとえば、イスラエルのような国家が存続するためには、闇の世界での駆け引きが死命を制します。
 でも、それらの人々は、表社会の人間に、それと知られてはなりません。あくまでも光と影の二つの顔を使い分け、闇の世界で活動しなければならないのです。それなのに、ネリーの存在とその不思議な行動は、表社会では派手すぎて、正体が見え見えでした。ネリーは若過ぎたのです。サンテックスと出会ったのは、まだ19歳の時でした。燃え上がる恋の炎は、抑える術がない程に激しかったのでしょう。互いにそれぞれ配偶者を持つという、世間的にもまずい立場になってしまって、それでも、彼を手助けしないでは居られませんでした。
 道ならぬ恋に狂う愚かな女に成り下がってしまった彼女は、サンテックスのために、その力を割くことが多くなりました。もちろん、本来の役割を闇の世界で果たしていたのだとは思います。一見、サンテックスのためにしたことのように思われることも、実は、表社会に引きずり出されるのを避けるために行使した力である場合もありました。【たとえば、フランクフルトでの誤着陸事件の場合は、サンテックスのためと言うよりも、己を守るために陰の力を発揮したと考える方が、理に叶っています。ただし、そうなってしまったのは、ヘマな男に寄り添っていたからに他なりませんから、元を糾せば、彼女の恋い狂いが生み出した失策そのものです。】

 制限年齢を遙かに超過した40歳台のサンテックスは、事故の後遺症のため左手が思うように動かせず、一人で飛行服を着用することすら出来ない有様でした。こんなポンコツ老人が、最前線の高速偵察機操縦士として赴任することなどは、異例も異例、驚天動地の破天荒な出来事でした。醸し出された人間関係はともかくとして、戦争経済学上の収支では、部隊はずいぶん迷惑し、物質的な損害(飛行機大破・廃棄,成果のない偵察作戦に伴うガソリン・稼働機体・サポート人員の無駄遣い)も被りました。そうなるであろうことは、初めから判りきっていたのです。それなのに、この信じられない愚行人事がまかり通ったのは、陰で大きな力が働いたからに他なりません。様々な人脈がものを言った形になってはいますが、それを操ったのがネリーであることは、誰の目にも明らかです。

 闇にうごめく魔物の一人であると同時に、不倫の恋に身を焼いて日陰者としての不遇を耐え忍んだ一人の女。それがネリーの実の姿だと私は思います。闇の世界での活動があからさまになることは期待できませんし、興味も湧きはしませんが、サンテックスに関わる事柄については、明らかになって欲しいものです。彼女が歪めてしまったサンテックス像が、まだ一人歩きしていますから。


 ウッカリものの私は、彼女の死去を知りませんでした。「ネリーの力が落ちた」と感じたのは、2006年、フランスでの Le Petit Prince 発行60周年記念で発行された Le Figaro 誌サンテックス特集号(2006年7月発行)を手にしたときです。

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ル・フィガロ誌 特集号表紙

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ルイーズ・ド・ヴィルモラン 
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 上から順に
 ナタリー・パレ
 アナベラ
 アン・モロウ・リンドバーグ

 いろいろと盛りだくさんの特集ですが、その中に Parfume de femmes と題する Alban Cerisier 氏の4ページ(ただし、コンスエロの全面写真2ページと、上掲写真欄 1/4 幅 × 2段)の(暴露?)記事があり、表題も除けば実質1ページの記事です。その中で、上に見るように、ニューヨーク時代のサンテックスを「ドンファン」【Molière が演じた役名 Dom Juan を使っていますが、舞台と同じで、Don Juan と同義語であることは明白】と表現しています。写真こそありませんが、ネリーの名も登場するのです。彼の多彩な女性関係を伺わせ、ドン・ファンと名指しするこの内容は、これまでであれば、ネリーは絶対に許さなかったもの【拙サイトも、もし全部を英語で公開していたら、ネリーに潰されていた可能性は小さくありません】です。とはいえ、事情を知っている者にとっては、取り立てて新しい内容ではありません。それよりも、記事の最後にイタリック体で、Rosa mystica と書き記しています。通常ならばキリスト教徒がありがたがる Maria Rosa Mystica を指すと考えるのが妥当ですが、それでは、ここに書かれている意味が不明です。それに、"mystica" の頭は小文字なのです。


 更に私を驚かせたのは、同年ガリマール社から発行された「デッサン集成」でした。ネリーの所蔵品が、所有者名と共に掲載されているのみならず、そのうちの一枚、上半身のヌードスケッチに「モデルはネリーと推察される」(portrai supposé de Nelly de Vogüé) と書いてあるではありませんか(下図)。

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ネリー・ド・ヴォギュエ所蔵品群(初出)。

 ネリーがサンテックスの目に肌を曝した証そのものですから、驚天動地というべきなのですが、それでも私は「ネリーも歳をとって、自分の存在を残しておく気になったのか」と考えておりました。今にして思えば、ネリーが逝ったからこそ両書の発行が可能だったわけです。

 2009年(発行月日不明。私が気付いて発注したのが11月23日ですから、少なくともそれ以前)になって、雑誌 LiRE 別冊 No. 9 サンテックス特集号が発行されました。その中に、Terre des femmes と題する Jérôme Dupuis 氏の記事(4ページ)があり、ネリーの生存を 1908 - 2003 と記しています。サンテックス関連の読み物・記事中で、ネリーの死亡時期を明記した初めてのものではないかと思います。  (2003.12.30 追記)

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運命の出逢い
 南方郵便機原稿。

一線を越えた日
 リヨン駅*からディジョンまで、二人だけのコンパートメント。暮れなずむ街の灯火をカーテンで遮って........。

* お尋ねがありましたので追加します。『リヨン駅』Gare de Lyon はフランス中でパリにしかありません。ディジョン・リヨン経由マルセイユ方面の始発・終着駅です。
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現代のリヨン駅。駅舎そのものはあまり変遷がありませんが、駅周辺やコンコースは別物になりました。

陰の正夫人
 運命の非情に耐えて。

母を演ずる
 甘えと癒しを求め、代用母に抱かれて少年時代へ回帰するサンテックス。

巨大な庇護者 − もし「B夫人」なかりせば −
 「エジプトはナイルの賜物」という。ヘロドトスの言葉を模していうならば、「サンテックスはB夫人の賜物」である。この婦人なくしては、彼の作品群はあり得ない。そもそも、作家としての、そして、ニューヨーク時代以降の、操縦士としてのサンテックスは存在しなかったろう。<未完>


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初版本の表紙

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全部で129冊、« Les Amis de Saint-Expéry » 協会後援による特別刷の最初の100冊中第17番。

Antoine de Saint-Exupéy
Pierre Chevrier 著
 Pierre Chevrier という男性名のペンネームですが、筆者はあのB夫人です。サンテックスへの想い黙し難く、彼の伝記を世に出しました。不倫と非難されてもしかたのない間柄でしたから、存在を世に知られては、せっかく国のために命を捧げたとされている彼の名誉に傷を付けかねません。本名はおろか、(興味本位で筆者の正体を詮索されかねませんから)女性名を使うことさえはばかられたのです。
 表立って連れ添うことは叶いませんでしたが、サンテックスと彼女との絆の靭さを思えば、B夫人こそがサンテックスの本当の「妻」だったと言うべきではないでしょうか。彼の死後、遺言によって、出版権その他作品の管理は彼女が一手に引き受けることになりました。最近でも【1990年代の話です】、サンテックス協会に寄せられる質問のうち、彼の私的な部分に関する内容は、すべて彼女が直接返事を書いていたということです。


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On ne revient pas
Hérène Froment 著
 Hérène Froment という女性名のペンネームで書いた小説。軍医と、幼なじみの既婚の看護婦との愛情物語。サンテックスとの関係を心象的に綴った私小説で、日本語では「あの人は帰らない」と訳されています(題名だけです。本文の日本語訳はありません)。
【この本、1941年10月7日発行ですが、“sixième édition”とあります。発表したその年のうちにもう6版も売れたのかと仰天してしまいますが、こんな駄作が売れるわけはありませんし、ベストセラーになったという記録もありません。 ガリマール社がいう“édition”は同社特有の極めて特殊な用法で、本書が6回版を改めたということではありません。「第6刷」と解釈すべきものです。それにしても、本当にそんなに売れたのでしょうか。】

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