星の王子さまファンの

解剖・分類学

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こんな人、いませんか?

  1. 児童書派
    ゴスロリ
     街中でのパフォーマンスのひとつにロリータファッションというのがある。ウラジミ−ル・ナボコフの小説「ロリータ」にその語源があるらしいのだが、小説とは何の関係もない。「ロリータ」は発表当時さまざまに物議を醸した作品で、現在でもかなりの誤解を受けている。強硬に非難する人の多くは、まったく作品を読んでいない。アンダーティーン(12歳以下)からローティーン(13-15歳)への移行期にある、ある種の条件を満たす少女【9 〜 14 歳】を作者は「ニンフェット」と呼ぶ。「ロリータ」は、ニンフェットである主人公の愛称。
     ロリータコンプレックス Lolita complex(略してロリコン)という言葉はご存じだろう。上記のように、ナボコフの小説がその語源である。発表するやロリータ症候群 Lolita syndrome という言葉が奉られ、異常性欲の代表格にされてしまった。日本に於いては更に変形して、本来とは異なる意味で使われることが多い。
     日本での特殊な変貌はさておき、少女/幼女を対象とした男性の異常性欲を分類すると、以下のようになる。

     ロリータコンプレックス(ロリコン):12〜15歳の少女
    小説「ロリータ」が語源。原書を読めば判る通り *、第二次性徴が発現。乳房は発達しつつあり、もちろん、生理もある。陰毛も生え、性交経験もある。
    * Lolita(Dolores Haze), 初見時12歳。サイズ:尻囲り;29 インチ(73 cm,1インチ = 2.5cm【1.00 inch = 2.54 cm】として換算。以下同じ),大腿囲り;17 インチ(43 cm),ふくらはぎ囲りと首囲り;11 インチ(28 cm),胸囲;27 インチ(68 cm),上腕囲り;8 インチ(20 cm),ウエスト;23 インチ(58 cm),身長;57 インチ(143 cm),体重;78 ポンド(35 kg。1ポンド = 0.45 kg として換算),体型;痩せ形。
     12歳(誕生日)の少女にしては小柄である。逆に言えば、見かけの割にはマセている。
     アリスコンプレックス(アリコン):7〜11歳の少女
    「不思議の国のアリス」が語源。第二次性徴はまだ発現していない(最近の年齢には合わない点がある)。
     ハイジコンプレクス(ハイコン):7歳未満の少女
    テレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」(または、小説「Heidi」)が語源。本質的には「中性/無性」の年齢。

     魚類・両生類・爬虫類・鳥類・哺乳類、いずれをとっても性的成熟までは幼形の特徴を持ち、性的なアタックの対象から外されている。人類に於いても基本的には同じで、上記3類は「異常性欲」に分類されるのが当然である。ただし、性的成熟の完成後は、なるべく若い個体が好まれたことは疑いがなく、(時代・人種・宗教による差はあるものの)ニンフェット後期を性的対象とすることは必ずしも異常とは呼べない(たとえば、イスラムやヒンドゥーではアリコン半ばまで全く合法。源氏物語の若紫も数え年で10歳)。そのため、12歳以下を対象とする性的願望を小児性欲 pedophilia として異常にし、ロリータ年齢は過早ではあるものの異常とはしない立場がある(小説中のロリータは、積極的にハンバートを挑発する。思春期の少女に対する性愛は、エフェボフィリアの一種である)。
     また、絵画・彫刻的な美しさをどの年齢層に求めるかは美的感覚の問題に帰着するので「性欲」とは別の問題であり、コンプレックス(複合感情)呼ばわりは当たらないことが多い。
     【アリコンの男性モデルは作者のルイス・キャロル(本名チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン)。ドジソンの一方的な片思いであったことは明白。そのため、少女側に多少なりとも蠱惑性が認められる場合にシベコン(Cybele complex)と言う名を使うことがある。映画「シベールの日曜日」が語源。尚、シベールは12歳である】


     パフォーマンスファッションのロリータ達は、ニンフェット年齢を遙かに超える。幾重にも重ねて膨らませたピンクのレ−ス地スカートに短いエプロンを着け、10 ~ 20cm にも及ぶ厚底の靴と白いストッキング姿の、もはや少女とは呼べない年齢の女性を見てしまうのはかなり気持ち悪い。ご本人達は、異様であることは認識しているらしいが「キショイ」(気色悪い)とまでは思っていないようである。これにはゴシックロリータと呼ばれる変種が存在する。名前の由来ははっきりしない。ロリータファッションに黒を基調とした悪魔風の色直しをした、と表現するのが手っ取り早い。ヘビメタ風のものもある。こちらはさらに不気味である。
     「『星の王子さま』は児童書である」(とりわけ、内藤王子さまが正統派である)と主張する人々は、このゴスロリそっくりだと私は思う。独り善がりで客観性抜き。サンテックスの他の作品や人となりに関しては、ほとんど知らないし知ろうともせず、自分が作り出した世界に耽溺する。「わたしがいいと思ってるんだから、それでいいじゃない!」というわけだ。いい年をした「おとな」が「子供のココロ!」と叫ぶ様は、だみ声をはりあげて少女歌手に声援を送る無精ヒゲのファンクラブメンバーを見る心地がする。憧れのアイドルと同一化した自己陶酔の世界。行動の源は勝手な思い込みだけである。思い込みファッションに身を包んで街へ出た女性が、「コスプレロリータ達」だ。

    ニート予備群
     誤解のないようにお断りしておく。ニートや引き籠もりを、良い・悪いの判断基準で切り分けようというのではない。彼らを理解し、彼らが生き生きとして人生を送れるような受け入れ方を考えるのが社会の責任だが、それはこの項目の主題から逸れてしまう。そうした人々が現存するという事実をもとに話を進めることをご諒承願いたい。
     「星の王子さま」は、明らかにこれらの人々とその予備群に受けが良い。理由はふたつあると思う。まず第一に、自らを王子に移入して、サンテックスは「自分たちの良き理解者である」と思い込む誤解。そして第二に、後述する「未熟正機説」を捧信してしまえば、「自分こそが純真な子供の心を持った本来あるべき姿」となり、棘に囲まれ針の莚に座っていた生活が一変するのだ。「星の王子さま教」の信者誕生である。これは幼児退行と呼ばれる逃避の行動であり、当人のためにも周りの人々のためにもならない。Le Petit Prince が、このようなことを正当化するために使われている事例があるのは残念なことと言わざるを得ない。

  2. 発育不全派
    「変なおとなにはなりたくない!」
     そんなことを口走るあなたこそ、全く持ってどうしようもない変なおとななのだ。いや、「おとな」ですらないのかも知れない。Le Petit Prince を読んで「子どもこそ純粋なのだ」と思い込み、「おとなになることは子どもの心を忘れることだ」と信じ込む。それは、ヤクザ映画に心酔して極道の世界に憧れ、挙げ句の果ては堅気の人を指さして「あんな半端な人間にゃなりたかねえな」と嘯くようなものだ。
     作者のサンテックスは、テストパイロットを勤めた時期があった。新型機のテスト飛行を終えて「舵の利きが悪い」と報告し、「どちらの舵が?」と訊かれて右へ左へと梶を切る仕草をしながら首をかしげて答えられず、もう一度飛行機に乗り込んだという逸話が残されている。日を置かず、飛行艇の試験飛行で着水に失敗して機を転覆・沈没させてしまい、即座に解雇された。当時の自動車と大して変わらない原始的な小型機の操縦はできても、複雑な大型機を操縦する能力を持たない、無能な給料泥棒だったのだ。もちろん、回りからは「変な人」と用心されていた。一生消えなかった放心癖は、彼を知る人々から「異常」であると認識されていたのである。
     研ぎ澄まされた感性を持つと言うことが、非理性的である(もしくは、あるべきだ)ということにはならない。理性と感性は、バランスを保ちながら、一人ひとりの精神の内部に共存すべきものなのだ。このバランスが極端に偏った人もいる。その中には天才と称される人もいるけれど、極悪な犯罪者だって少なくない。小学生を襲って性的いたずらをしたり殺したりするのは、後者の例だ。身勝手で自分のことしか考えられない、典型的な「子ども世界」の住人である。夢内容と現実との区別がつかなければ、社会生活がままならない重度の精神異常だ。理性を否定するのはばかげている。童話(虚構)の世界と現実とは別のものだ。Le Petit Prince は、倒錯の世界を賛美しているわけではない。
     「子ども」の理性は未熟である。理性を磨き上げることが、まともな「おとな」になることなのだ。肉体年齢にふさわしい「おとな」になるためには、「こども」の世界に別れを告げなければならない。子どもの世界から乳離れできず、落ちこぼれであり続けたサンテックスの戯言に、心酔していてはならないのだ。

    ブラックバス密放流者
     外来生物が侵入して適応・繁殖すれば、生態系が乱されるのは避けられない。経済的な被害だけでなく、在来種の消滅や DNA 汚染も深刻な問題である【遺伝子汚染に関しては、外来種ばかりでなく、在来種の移動も避けなければならない。たとえば、趣味や観光目当ての安易な蛍の人工増殖・放流が、日本中のホタル地方種分布を攪乱している】。
     輸入生物による被害の代表例が、オオクチバス・コクチバス・ブルーギルに代表される魚食魚だ。オオクチバス(ブラックバス)は日本への移植歴がはっきりしている。赤星鉄馬氏が北米からブラックバスを輸入し、箱根山の芦ノ湖に87匹放流したのは、1925年(大正14年)のことであった。ブラックバスが大食の肉食魚であることは充分承知されており、逃げ出せば内水漁業に大打撃を与えるであろうことは、当時から指摘されていた。芦ノ湖は人工的な用水によって少数の水系につながるのみで、外来淡水魚を放流しても他の水系へ拡散する心配がないと思われており、ニジマスの放流等、外来魚の試験的な移輸入に適した場所と認識されていた。
     ブラックバスは他の水系でも発見されるようになったが、1960年代半ばまでは、局限された水系にとどまっていた。1970年代になって、ルアーフィッシングブームが訪れ、ブラックバスの強烈な「引き」が釣り人を魅了するや、芦ノ湖はバス釣りの聖地となった。
     「君子は網せず」といい、孤高の釣りを楽しむことになっているが、嘘である。総じて釣り人は自己中心的。傍若無人で他を顧みない。滅茶苦茶な撒き餌と使い残しの放置によって海底や磯を腐らせ、テグスや針を海岸にうち捨てて恥じるところがない。禁漁もものかは、稚魚であろうが孕みメスであろうが、釣れたものを放しはしない。それどころではない、手近なところで「強力な引き」を楽しみたいと、釣れたブラックバスを持ち帰り、近在の水系に放流する不心得者が陸続として日本全国に現れた(日本中に一気に飛び火したことについては、釣り具業者による組織的な密放流が大きく与っているといわれている)。1970年代の終わりには、ほぼ全国でブラックバスの生息が確認されるありさまとなった。当然、鮎を初めとする淡水漁業は大打撃を受ける。【証拠が揚がらないが、木曽川水系に密放流した犯人と名指しされる人がいて、川漁師たちの憎悪の的となり、「家に火を着けてやる」と息巻く者も少なくなく、密かに警護が検討されたほどであるという。】
     1990年代に入って、野尻湖(長野県)で冷水系のコクチバスが発見された。ブラックバスとは異なり、日本にはいないはずの新種である。慌てた水産庁は放流禁止の通達を出し、各地の自治体は次々に禁止条例を制定したが、コクチバスの拡散は止まなかった。冷水域で繁殖できるコクチバスは、ヤマメ・イワナを駆逐しつつあり 、魚ばかりではなく、繁殖期以外は陸上で生活するカエルやサンショウウオまでもが(地域によっては)壊滅的な被害を被っている。
    成魚を直接食害しなくとも、川を下る幼魚や遡上する若年個体を補食することにより、上流域の魚群を絶滅に追い込む。

     ブラックバスばかりではない。刹那的で自己中心的な、後先を考えない思慮のない人間が増えている。最近とみに話題となるものに、ペットの遺棄問題がある。生態攪乱・環境破壊ばかりか、(ワニ・カミツキガメ・アリゲーターガー等)人間に直接危害を加えるものさえ公園や河川に放たれるという、無責任な「ペット愛護者」が後を絶たない、信じられない国になってしまった。
     「自分さえ良ければ」という身勝手な価値基準。残念なことに、「星の王子さま」ファンの中にもこの種の人々がいる。アニメーション「星の王子さま」が、原作とはまったく異質のものであるという「事実」を受け入れて貰えなくて困り果てていたのだが、新訳続出によって、この悩みは別の形で更に広がった。内藤訳以外を「非正統 *」とする人が、少ないとは言えないのである。困ったことに、その内の更に一部は、他の翻案に対して攻撃的なのだ。議論を邪魔されたり、フォーラムに乱入されたりすると、諸訳を比較する意見交換は低調化してしまう。
    * 内藤訳こそが「非正統」であるというのが、私の主張である。好き嫌いは個人の裁量範囲であるから、自由にすればよい。それとは異なり、原作に照らしてどのような解釈が「正統」かは、好みの問題ではない。冷静な議論と、その結論の公開が、外国文学を理解するには必須である。「気に入らない」から邪魔をする、俺様の望み通りの世界を作るのだというのでは、話にならない。

  3. 教条主義派
    本願誇り
     浄土真宗が悩まされた難題のひとつに「本願誇り **」というものがある。「星の王子さま」ファンの中には、一見これに似通った「未熟正機説」が蔓延している。

    ** 親鸞の「悪人正機説」を拠り所として、悪事をはたらいた者が「我こそ阿弥陀如来の本願に添う者」と自らを誇ること。ここで親鸞批判・歎異抄批判なぞしようものなら、泥沼の宗教論争に巻き込まれかねないから、深入りはしない。興味がある方は各自お調べ願いたい。

     Le Petit Prince を漫然と読むと、子供賛歌のような誤解をする記述がある。サンテックスはそんな底の浅いことをいっているわけではないのだが、一部のファンはこの誤解に夢中になる。「おとなの心は曇っている!」「子供の澄んだ心だけが『みえないもの』を見ることが出来る」「あれこれ詮索するのはおとなの証拠!」etc., etc. 。慢心・無知・身勝手が「星の王子さま」を理解できたことの証拠だと言いつのるのである。

    確信テロ
     どのような読み方をしようと読者の裁量なので、「未熟正機説」について他人が口を差し挟むことではないのだが、この種族の中には攻撃的なグループが存在する。言葉が意味するところをあれこれ考証・議論しているフォーラムに乱入し、「おまえ達は『星の王子さま』の心髄を穢している」と息巻き、議論を妨害するのは困りものだ。
     とりわけ始末に負えないのが、英語を母国語とするこの種族。インタネットの公用語は英語だ。乱入者、英語そのものは参加者の幾人かよりはよほど達者だし、だいいち、文学論に参加するわけではないから、その種の知識は不必要。日常会話のレベルで、参加者を罵れば事足りてしまう。言葉の障壁を乗り越えてフォーラムで意見を交換しようというほどの人々は、Le Petit Prince を「子供の読み物」とするようなレベルを疾うの昔に卒業している。失礼ながら、読み込み不足の乱入者は、大学生の勉強会に幼稚園児がやって来て駄々を捏ねるようなものだ。誰もまともに相手をする気は起こらないし、説得を聞く相手でもない。無視すると、ますますいきりたつ。最終的には排除することになるけれど、フォーラム主催者の時間的・心理的な負担は大きなものとなる。そのフォーラムを廃棄して別の場所で議論を再開した方が手っ取り早いが、有料サイトでは経済的な損失も馬鹿にならない。スパム対策もあって各フォーラムはどんどん会員制となり、誰でも参加できる開かれた議論が姿を消してしまった。

  4. アニメ派
    プチ・プランス愛玩者
     昔、子供向けのテレビ番組や絵本があったらしい。これが「星の王子さま」との出会いであった人々が今や「おとな」の年代になった。活字の「星の王子さま」ファンとは種族が異なる。いうなれば、「星の王子さま」ファンのオタク族である。チャットサイトに寄り集まって、昔話に花を咲かせたりしている。テーマソングの話題も、結構盛り上がる主題のひとつらしい。まわりに害を及ぼすわけではないので放っておけばよいのだが、Le Petit Prince ファンはみなこの同類、と思われることがあるのが心外である。

  5. 善人派
    ワニの空涙
     秋になるとフランス都市部のマルシェ(朝市)には、ジビエと呼ばれる野鳥・小型野獣が吊される。解禁となった狩猟の獲物達。脂ののった「旬もの」に主婦達の眼は吸い寄せられる。「たまには奮発してみるか。」 鴨・雉・野ウサギ・鹿 . . . 。普段のアヒルや豚に較べると、毟らなければならない羽や毛が残してある部分が多いし、臭いもきつい。「胡椒、台所にどれ位残っていたかなぁ」。肉食種族であるヨーロッパ社会では、鶏や小型家畜を捌けなくては庶民階級の主婦はつとまらないのだ。
     第二次世界大戦後の日本では、庭先や路地、時には玄関の土間まで使ってニワトリやウサギを飼うことが珍しくなかった。放し飼いではあっという間に盗まれてしまう。木箱に金網を張った手作りの檻である。大変な食糧難。配給品だけでは命を保つことはおぼつかない。農家へ出向いての「買い出し」でやっと子供達を養うことが出来る。卵や肉は手に入らない高価な貴重品だった。一家の主婦は髪振り乱して買い物に走り、ささやかな家禽・家畜の世話に追われたものだ。子供達に肉を振る舞うには、料理をしなければならない。バタバタと暴れるニワトリを両手でつかみ、首をひねって窒息死するまで押さえ込む(本当は、思い切って強く2〜3回捻り、頸椎脱臼させた方が早く済む。それを会得するのは何羽も殺してからである)。羽をむしり、残った羽を火で焼いてから捌く。ウサギの場合は、出刃包丁の峰で眉間を一撃する(ウサギは鳴かないものだが、この瞬間は一声「キュッ」と音を出すことが多い)。「面倒を見た相手」だからといって、涙ぐんではいられない。肉や内臓を取り分ける。毛皮は干して、売るか、なめし業者に出してから手作りの手袋や襟巻きにする。昔の主婦は逞しかった。
     昨今の奥様方は、魚でさえも捌けない。魚も鶏も豚肉も、切り身や精肉で買い求める。グルメブームとやらで、きれいに皿に盛りつけられた肉料理には舌鼓を打ちながら会話を楽しむ。生き物を殺戮するような野蛮な行為とは関係のない世界で生きていると思っているのだ。口の中で噛みしめられるその肉も、命を持った存在であったことは忘れて。
     ワニは純粋に肉食である。他の命を絶つことなしに生きてゆくことは叶わない。ワニが獲物に同情して、「子鹿さん可哀想」と流す涙を「ワニのそら涙」という。涙を流しながら、「おいしいっ! ゴックン」。(とはいえ、涙を流すワニはまだましである。自分がその子鹿の命を奪うことへの自覚がある。優雅に食事を楽しむ奥様方よりは罪は浅い。)

    偽 善
     多くの星の王子さまファンは平和主義者を気取り、争いを好まない。「話し合いが大切」と言いながら、論争の渦から身を遠ざける。「ワニのそら涙」を流しながら、静謐な生活を享受するのだ。しかし彼らが安住している「平和」は 、彼らが作り出したわけではない。そしてこの地球上には、戦乱に苛まれ、貧困に喘ぐ人々が絶えたことはない。我々が身を浸す「平和」は、そうした悲劇と隣り合わせなのだ。
     私の経験では、「最も心優しい者が最も激しく戦う」。抑圧され、片隅に遺棄された人々を、見て見ぬふりでそのままにしておくことができる人は残忍非道な心の持ち主である。捨てておけなければ立ち上がるしかない。それ故にこそサンテックスは、老体をひっさげて戦線に赴いたのではなかったか? 「諍いは好まない」と平和主義者を気取って己の安穏を守ろうとする者が、「行動する作家」サンテックスの作品を賛美するのは些かおかしいのではないかと私は思う。Le Petit Prince を「子供の読み物」に押し込めたがる人は、それを実生活に響くことのない夢物語に終わらせたいという無意識の願望を抱いている人々である。論争を厭うべきではない。独り善がりを克服する真剣な切磋琢磨があってこそ、作品の真髄に迫ることができる。

     敵を恐れることはない。せいぜい君を殺すだけだ。
     味方を恐れることはない。せいぜい君を裏切るだけだ。
     もの言わぬ人をこそ恐れよ。
     彼等は人を殺しはしないし、君を裏切りもしない。
     だが、その暗黙の合意があればこそ、
     世の中に裏切りと殺戮が横行するのだ。
    ロベルト・エベルハルト
    「ピテカントロープ最後の皇帝」より

    ブルーノ・ヤセンスキー 著,江川卓・工藤幸雄 訳
    『無関心な人々の共謀』第一部(河出書房新社 1974)
    エピグラフより(一部改訳して)引用


    マリーアントワネットのブリオシュ
     「我らにパンを!」 やがては大革命に発展する貧民達のデモの噂は、ヴェルサイユ宮内でもひそひそと囁かれていた。それを聞きつけたマリーアントワネットは眉を顰めてつぶやく。「なぜそんなことで騒ぐのかしら。パンがないのならブリオシュを食べればいいのに」。ブリオシュはバターや砂糖をたっぷり使った贅沢なパンである。年に一度、一家揃ってブリオシュを食べる祝日があるけれど、庶民の口に入る代物ではない。庶民が日頃口にする「パン」も、宮廷で供される柔らかくて美味な上等の特製白パンとは似ても似つかぬ、ボソボソと乾いて硬い「田舎パン」である。そのパンすらも手に入らぬほど窮乏した国民の台所事情や物価の実体を知らないマリーアントワネットにとって、パンとブリオシュは等価の選択肢なのだ。(このエピソードは作り話だと思われる。憎まれ役のマリーアントワネットは、事実に反して様々な罪悪を押しつけられている。)
     この浮世離れの感覚を、星の王子さまファンは少なからず共有している。世界中に戦争や貧困は溢れているし、若者が行き交う歌舞伎町だって一歩裏へ入れば、異なる道義が渦を巻く別世界である。そうした現実からは目をそむけ、王子さまの純粋さを気取る会話の数々は、着飾って優雅にワルツを踊る舞踏会の貴族達を彷彿とさせる。人殺しで手を汚すわけではない。貧民達に同情を寄せ、場合によっては情け深い寄付もする。でも、現実の社会構造を変革することは望まない。香水の香りと典雅な会話を失うことには耐えられないのだ。

  6. 耽溺派
    カラオケ熱唱
     

  7. 西家之愚夫
     孔子西家有愚夫、不能識孔子是聖人、乃曰、彼東家丘。  (孔子家語)
    木を見て森を見ない?
     言葉の意味を検証している読者を指して「木を見て森を見ない」と評する人がいる。「星の王子さま」ファンの中には取り立ててこの種の論者が多い。殆どが「子どもの心」派に属する。Le Petit Prince はあれこれ詮索せず、あるがままを素直に受け入れるべきものだというわけだ。この人達は傲岸であると私は思う。
     森に分け入って木々の一つひとつを観察するほどの人は、森の全容は疾うに見通している。いろいろな角度から眺めた森の全容を思い描きながら、一本いっぽんの木を見つめ、森全体の中でどのような役割を果たしているのかに思いを致しているのだ。やがては森を出て、改めて森の全容を見つめ直すためにである。それぞれの木肌の有りようや地に敷き詰められた落ち葉の数々、そして、遠くからは見えない灌木・下草、ひっそりと色づく木の実・ドングリをくわえて走るリスたちの姿。すべては森に入って初めて知ることができる。それらを識ってこそ、本当に森を理解したことになる。
     「理解」を拒む人々は、森の全体像すらも見てはいないのだ。木どころか森すら見る能力のない人が、森に分け入る人を指して「森を見ない」と嘲る。情けないことに、その人々が「多数派」なのだ。いつの日かちゃんと森を見つめ、その中で息づく木々のことに思いを致してくれることを願わずにはいられない。
     
  8. ネット右翼
    内藤 濯 狂信派
     新訳の存在に我慢ならない人がいるらしい。具体的な欠点を指摘する能力はなく、ヤクザまがいの因縁をつけて、「結局、内藤王子さまに勝るものはない」と、説得性のない結論を振りまわす。理性的な議論は不可能である。
     「星の王子さま」の愛読者が、このような形で自分の考え方を他人に強要し、「投降」しないサイトを執拗な攻撃によって「炎上」させようという事態は、まったくもって信じられないことなのだが . . . 。現在のところ日本でそれをするのは内藤信者に限られる。内藤訳ファンにとって名誉なことではないだろう。
     具体的な内容に踏み込んでの議論を展開する能力に欠けるところを見ると、じつは「星の王子さま」を読んではおらず、単に悶着を起こして楽しむだけの「愉快犯」のようにも思われる。だとしたら、Le Petit Prince を愛する読者にとってこれほど迷惑な存在はない。
  9. 似非読者
    有名作品半可通
     世の中には、知りもしないのに、さも詳しいような「知ったかぶり」をする手合いがいる。半可通という。
     日本経済新聞2008年7月3日号の一面コラム「春秋」に「星の王子」が現れた。洞爺湖サミットを書き出しとして、「翻訳文化」に言及し、

               . . . . . 横文字を
              縦にしただけで独創性が
              ないように思われがちだ
              が、そうではない。日本
              の翻訳文化は、知識人た
              ちの創造力と想像力なし
              には生まれなかった。

    と述べた後、最後部分で書名の日本語化について:

              ▼
               . . . . . . . .
              と、翻訳は文学そのもの
              だ。ラディゲ「肉体の悪
              魔」は「青春のうずき」
              が正しいが、意訳の方が
              いい。モーパッサン「女
              の一生」は直訳の「ある
              人生」ではつまらない。
              サン・テグジュペリ「星
              の王子」も直訳の「小
              さな王子」では、夢や
              悲しみが伝わらない。

     と結んだ。
     「肉体の悪魔」も「女の一生」も「星の王子さま」も、「直訳ではつまらない」と決めつけるには大いに問題がある *
     星の王子「」は論外として、あの作品のどこに「夢」があるというのか。日本語訳すら、読んでいるとは思われない。この著者は、三作とも原文で読んではいないのだろう *
     書名は、内容と不可分のものである。キャッチフレーズとしてのおもしろさと書名としての優劣は、別の基準で判定しなければならない。原作も読まないで、書名の翻訳を論ずるのは、資格不足というべきものである。
     単に有名作品であるというだけで埋め草同然に扱われ、見当違いのコメントをつけられるのでは、作品はたまったものではない。有名新聞の一面コラムとしても内容が薄すぎ、とりわけ、この結論ではコラム全体の意図が(独断と誤りを含んだ)「軽い読み物」と化してしまう。マスメディアの質の低下が、こんなところにまで現れているのだ。

    * 「肉体の悪魔」Le Diable au corps は、直訳である。(『「青春のうずき」が正しい』というのは何処から出てきたのか?)
     『「女の一生」Une vie は直訳の「ある人生」ではつまらない』も説得性がない。「女の」は入れても構わないが、内容を読めば「女」であることは明白であって、標題に謳うほどのものではないし、あったからといって解釈の助けになるものでもない。「女」一般に拡げられる内容ではないから、強いて入れるなら「ある女の」とすべきものだが、本質的に蛇足である。「ある人生」の方が明らかに優れている。

     新聞記者のように、毎日々々締切時間に追われて文章を書いていると、どうしてもマンネリ(=ジャーナリズムの対蹠)に陥りがちになる。一般紙でありながら、芸能誌・スポーツ紙並みのくだらない語呂合わせ見出しが平気で使われる昨今のありさまは、整理部の質の低下をまざまざと反映・露呈するものであろう。
     それとは異なり、文学者が作品を脱稿してその作品名を推敲するに際しては、いかにして内容を端的に表すかを必死に模索するものである。その結果選ばれた標題は、安易に「意訳」してよいものではない。

     ♪Quand refleuriront les lilas blancs . . . ♪(白いリラの花が今年もまた咲いたら . . . )を和訳するのに、リラ【あるいはムラサキハシドイ。ただし、元歌はドイツ語圏のオーストリア。「ニワトコ」が正しいとする説があるが、“Flieder”にはリラ ( = spanisher Flieder )という意味もあるので、der weiße Flieder を les lilas blancs とする仏訳は、誤りではない】では日本人に解らないから、(白い)スミレに変えるというのは許される。書名 Le Petit Prince を「星の王子さま」とするのは、まったく次元の違う話である。
    【「王子」が誤訳であり、「星の王子さま」が支持できない曲訳であり、内藤訳が作品解釈に偏向・浅薄で、読者をミスリードするものであること、は既に縷々述べているので、詳しい内容をここには繰り返さない。】

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