これは標題にあるとおり“草稿”です。少しづつ書き足して行きます。訂正したり、削除したり、
アイデアやメモを書き込んだり。原稿が作られ・推敲されて行く過程をネットの上で公開してしまおうというのです。おそらくインターネット始まって以来初めての試みでしょう。
素人の手すさびですから、内容は大したものではありません。時間があるときに書き足すのですから、
完成まで何年掛かるか見当がつきません。惨めな失敗に終わってしまう可能性も大きいのです。でも、
挑戦してみる価値はあろうと思います。
ご返事できないかも知れませんが、いろいろなご意見をお寄せ戴ければ、執筆の参考にさせていただきます。
この草稿も、リンクフリーです。ご自由にリンクしてくださって構いません。ただし、著作権法に定める権利を放棄している訳ではありません。テキストや画像をダウンロードしてお使いになる場合は、引用元を明記してくださるようお願い致します。
恣意的な改変や、部分部分をつまみ食い的につなぎ合わせて趣旨の誤解を起こすような要約はご遠慮下さい。
なぜ“Petit”なのか。
“Petit Prince”を日本語にすれば、「可愛い王子さま」または「ちびっこ王子」だ。どちらを選ぶかと問われるならば、後者を推したい。ページを繰れば、現実の世界から遊離したロマンチックな挿絵が一杯ある。そのうえ「可愛い王子さま」と標題を打ったのでは、「星の....」と訳すのと同様、夢見心地の薄っぺらな「童話」になってしまう。 王子は、他人の話には耳を貸さず、自分の考えばかりを言い募る「かわいくない」一面がある。いわば「くそガキ」としての小憎らしさである。一方で、大人の思慮をのぞかせたりもする。 単なる可愛い子供ではない。「ちびっこ王子」が適訳だ、と私は思う。
童話に現れる“王子”には典型と呼ぶべき筋立てがある。
|
1) 青年期の年齢であること。 |
|
2-a)配偶者を求めて旅の途中にあるか、あるいは、配偶者選びの舞踏会を催すかのいずれかである。 |
|
2-b)特に配偶者を求めてはいないが、狩(または散歩やお忍びの領地散策)の最中であるか、旅の途中であるかのいずれかである。 |
|
2-c)前記のいずれでもないが、なにがしかの非日常的な状態にある。 |
|
3)偶然、気だての優しい(多くの場合、身分の高い)美少女に出会い、恋に落ちる。さまざまな試練の末、最終的には結婚する。 |
しかし、Le Petit Prince はこのような筋立てとは無縁である。
もし“Petit”が無かったならば、そして、もし挿絵がなかったならば、読者が思い描く“王子”は、随分これに近づいていたはずだ。本文中で、子供であることが述べられているにも関わらず、である。
作者はどうしても「中性」的な王子にしたかったように見受けられる。早い時期に「王子の肖像」を見せて読者のイメージ固定を図っている。本来ならばこの挿絵は、最後の【何処かで見掛けたら......】というシーンで提示されるべきものである。それを早々と提示する。それだけでは足りず、題名に“Petit”とつけて、大人(すなわち男)ではないことの念押しをしている。これは、この作品を読み解く上で蔑ろにはできない点となろう。
作中の王子には、男の匂いが欠けている。そもそも、バラ以外には、狩人がお目当てとする村娘が唯一の女性キャラクターである。性的な主題が入り込むのを意識して避けているとしか思われない。そしてこのことが、王子がバラに寄せる愛・思い遣りに、色濃くミンネ奉仕の彩を添えることになる。
なぜ“Prince”なのか。
“Prince”が“王子”であることに疑いを差し挟む人は少ない。しかし、山崎庸一郎氏は指摘する。モナコやリヒテンシュタインのような小国がヨーロッパには存在し、大公国( Principauté )と呼ばれる。その支配者は、王( Roi )ではなく、大公( Prince )である。Le Petit Prince は、「まだ子供である“王子”」という意味ではなく、子供ながら一国(B-612)を支配している“大公”なのだ、と。[月刊 MOE 1980年4月号 p.13,「星の王子さま」フランス語辞典,同 1993年7月号 p.14,「星の王子さま」8の秘密]
この指摘は核心を衝いていると私は思う。地球のバラ達に出会った王子は「星に残してきた自分のバラ」が何の変哲もないあたりまえの薔薇だったことにショックを受け、「えらい王さまなんかになれそうにない」(内藤 濯訳)と草原に泣き伏すのである。このくだり、「えらい王さま」は“ un bien grand prince ”と表現されている。王位継承権者が立派に成長した後は、王( le roi )になるのであって、「立派な王子になる」のではモラトリアム人間もいいところだ。第一、物語りには父親も母親も登場しない。王子は天涯孤独の身であって、継承すべき王位があるのならとっくに継承して王になっていなければならないと考えられる。事実、星を見回り、火山の掃除をし、悪辣なバオバブの芽を摘みとるという、B-612 のたった一人の支配者としての義務を忠実に果たしているのである。先の文章は「これじゃあ立派な大公なんて言えない」というのが正しい解釈であろう。
|
大公国は独自の外交権や交戦権を持たない半独立国であり、その権限を隣接する大国に握られていることが多い。王子が第一の惑星を去るにあたって、「王さま」が『そちを大使に任命する』と宣言しているのも、王に隷属する大公の立場を反映している。 |
【末妹ガブリエルが結婚後居住し、サンテックスも何度か休暇を過ごしたアゲイから、モナコはすぐ近くである。サンテックス自身モナコを訪れたこともある。モナコの元首が Prince (=大公)であることを、サンテックスが知らないはずはない。】
Prince を、逃れようも無く「王子」と翻訳してしまったのは、日本語版と中国語版である*。 しかしながら、世界中の読者が“王子”と解釈しているであろうことはまず間違いない。文学作品の「解釈」とは、しょせん読者による作者の意図の誤解である、と“はじめに”で述べた。この草稿では、王子なのか大公であるのか、にはこだわらないことにする。作品全体の解釈には、あまり大きな影響がないと判断されるからである。
|
* そしておそらく、16種類ある韓国語(朝鮮語)版も。私自身は読解力を持たないが、この国の人に読んで貰ったところ、表題は「若い(もしくは幼い)王子」の意であるという。 |
“星巡り”の挿話は必要か?
Le Petit Prince の執筆に際して、文章の方は比較的すんなりと進んだ(6月執筆開始。10月脱稿)が、挿絵には随分苦しんだということである。その苦しんだ挿絵が、星巡りではふんだんに使われている。星ひとつに一枚のカラー挿絵である。作者は星巡りには随分入れ込んでいることが判る。だが、作者の興が乗っていることと作品の出来映えとが一致するとは限らない。
私の意見に不満がある人は、星巡りの部分(第十章から第十五章まで)を抜いて「星の王子さま」を読んでみたら良い。実に引き締まった佳い短編であることが判るだろう。星巡りがあるために、物語は冗漫で水脹れした様相を呈する。星巡りのエピソードそのものが悪いとはいわない。これはこれで(ガヴォワールの娘に執筆を約束したという La Petite Princesse のように)独立した別の短編を作れば(もしくはその La Petite Princesse の中に、今度は最初から筋書きの中に組み込んで違和感のないようにすれば)良い。
この物語の流れが、王子−キツネ−バラ、のラインであることは動かし難い。とするならば、かなりの紙数を費やして描かれた「星巡り」は一体何なのか? うんざりするほど長い長い旅路の果てに、地球に辿り着いたということを読者に判らせるためだけにしては、登場人物はあまりにも意味ありげである。しかしこの「星巡り」は、作品の主題を霞ませる。
思うに「星巡り」は、サンテックスが仕掛けた罠なのではなかろうか。得々として星巡りの解釈をひけらかす人々は、あやかしの玄道に踏み迷い、偽りの石棺に惑わされてピラミッド内をさまよい歩くミイラ採りにも似て、遂に物語の核心に迫ることも叶わぬまま、その生涯を閉じることになる。己が私生活を振り返り、この作品中で真情を吐露したサンテックスは、容易には核心に辿り着けぬよう物語を迷宮に仕立て上げたのだ。「社会批判」などという取るに足らぬ解釈に尻尾を振って喰らいつく読者に、血が滲むような作者の半生を気取られたくはないのだろう。
「星巡り」の異質性は、この作品全体の構造解析からも浮き彫りにされる。物語は、「6年前」を中心に、「操縦士」と「王子」の過去と(6年前の)「現在」との間を繰り返し行き来しながら少しづつ話を進め、その時間的な振れ幅をだんだんと狭めて「6年前」の王子の死に収斂させるという技法がとられている。それなのに、「星巡り」では時間の変動が止まり、平板な時間経過が延々と続く。この「星巡り」は、全体でひとつのモジュールとして挿入されており、これをそっくり取り外しても、物語の全体像にはまったく齟齬を来たさない(シャンピニヨン氏については別項で論ずる)。更に、一つひとつの星の物語も単位モジュール(もしくは独立部品)化されており、どれを取り外しても、繋ぎの1〜2行を削除すれば他に何の影響も残さない単なる挿話の構造である。
| サンテックスの執筆方法は「小説の原案をバラバラの紙に書いておき、パズルを組み立てるように、それをどういう順番に並べたらいいか考える」(1924年、サレス宛の手紙)というものだった。「星巡り」の挿話が各個独立なモジュールの脈絡の無い集合であるのは、まさにこのようにして思いつくままに書き散らされたエピソードの集合であるからに他ならない。 |
構造上の平板・異質性と意味論上の不要・冗漫性が、「星巡り」の際だった特性といってよい。サンテックスお得意の「鼻につく説教臭さ」も付け加わる。
|
「人間の土地」と「風と砂と星と」では、内容が同じではない。英語版を編集するに際して出版社から、「分量が少なすぎる」とクレームがつき、書き足しを要求されたからである。 もしこの「星巡り」がなかったならば「Le petit Prince/The Little Prince」も、単独出版物としては営業が成り立たない分量になってしまう。それぞれの惑星のエピソードが各個に独立して、話の筋立てとまったく無関係なモジュール構造になっているのは、他の箇所への影響を最小限に抑えながら分量を増やすための書き足しとしての当然の帰結であろう。星巡り部分だけ挿絵がやたら多いのも、限られた時間内で多くのエピソードを創作することができなかったために、簡単にページ数を稼ごうとしたのではなかろうか。 サンテックス自身の判断によるのか、草稿を出版社に持ち込んで駄目を出されたのかは即断できないが、「星巡り」は「書き足し」であろうと私は想像している。裏づけ資料が発見されることを期待したい。 |
|
木に竹を継いだような不自然な流れ。転轍夫のエピソードで充分。蛇足の典型。折角の締りのある物語が、冗長で散漫な横道にそれてしまっている。「説教臭さが鼻に付く」と批評されるサンテックスの欠点が顔を出している。別の物語を融合させたか? それとも、単なる水増しか? 地球が7番目。太陽系の軌道を冥王星から始まって順番にたどると地球は7番目である。小惑星帯から出発したのではこうなる筈もないが、「童話」だから許されるだろう。(描かれた星の大きさからいえば6つの星はすべて小惑星の範疇に属する。さすれば王子の旅は小惑星帯内部でのさすらいということになる。実際、出発直後に第 325 番から第 330 番まで、6個の小惑星( Astéroïdes )を通過して、王様の星にたどり着いている。しかし、訪れた“星”は、原作では“Planète”と呼んでいるから小惑星ではなく惑星である)。6番目の星は10倍も大きな星となっている。太陽系でいえば木星を指すのが順当ということになるが、上記の順番で6番目は火星である。 キリスト教文化圏にあって、「7」は特別な数字である。 |
<未完>
レオンウエルトへの献辞
この物語が、コンスエロへのメッセージを含んでいることは全く疑いがない。そしてまた、「キツネ」の言動にシルビア・ハミルトンの姿が二重写しになっていることも、否定できない。にもかかわらず、この物語は、フランスで逃亡生活を送るレオンウエルトに献じられている。
(献辞と同じ重要性を持って考慮するべきことが、もうひとつある。本文中の「3本のバオバブの絵」が、「王子に勧められて」「フランスの子供たち」(des enfants de chez moi)に向けて描かれたことだ。執筆場所はアメリカである。なぜ「フランス(我が国)の」子供たちなのか?)
| chez moi を「我が国」(特にフランス)とすることには異論があるかもしれない。新訳では「星」「地球」と訳している例も多い。しかし、この“moi”は「家」(ボクんち)ではない。“chez”が時間を表すとして「私の時代」と言うのもしっくり来ない。“chez”の主体は砂漠で遭難している操縦士であるから、“moi”を「星」「地球」とするのは無理がある。やはり“chez moi”は「私の国」であろう。だとするならば、それはフランスということになる。巻頭に献辞を捧げられた、レオン・ヴェルトが苦難に耐えている国。そして、操縦士はフランス人(十万フランの家を見たよ!)である。 |
サンテックスが、わざわざこの献辞を巻頭に置いたことは、決して軽んずることのできない意味を持っている、と考えなければなるまい。全世界の子供たちへ送る「童話」ではないと、サンテックス自身が宣言をしているのだ。
<未完>
Chapter 1.
1-1 裸の王様はウワバミの帽子を被っている。
サンテックスは、Le Petit Prince の中に、意地悪な罠を幾重にも仕掛けていると私は思う。「ウワバミ帽子」もそのひとつだ。帽子の絵を見せられて、そこにゾウの姿を見る人は、正常な精神と健全な判断力の持ち主ではない。言うまでもなく、描き手も同列である。「ウワバミに呑み込まれたゾウ」を描きたいのならもちろんのこと、「ゾウを呑み込んだウワバミ」を描くにしても、最初から中身を描き込むのがあたりまえの精神構造というものだろう。「子供だから」と言う逃げ口上を使いながら、サンテックスは陰湿な踏み絵を敷き込んだ。「帽子にしか見えないのは子供の心を失った証拠」と言い募る人々は、裸の王様の華麗な衣装を褒めそやして恥じない人達である。サンテックスは嗤っているのではなかろうか。
「子どもの純真な心を持つ人には、ゾウを呑み込んだウワバミが見える」という人が多い。外国のサイトには、この「ウワバミ」を第一関門に据え、「帽子」と答えた人を追い返す造りになったホームページさえある。しかし、事実は逆である。これが帽子にしか見えない純真な人は、これ以降を“チョッピリ寂しいけれど、最後は心暖まるハッピーエンドの童話”として読み進めばよい。内にゾウの姿を透かし見る人は、世界を蚕食する悪辣なファシズムの脅威を愁い、言論と武器を以て立ち上がる責任がある、とサンテックスは言っているのだ。愛の戦士としての資格を持つ「昔子供であった」者は多くはない。見る目も持たずに「ゾウが見える」と言い囃す人々が人類を救う戦士に成長することは、ラクダが針の孔を通り抜けるよりもっと期待し難い。フランスでは、その数少ない戦士達がひもじい思いに耐えている。物語のエンディングは決してハッピーエンドではない。
1-2 ひとめで中国とアリゾナの見分けがつきました。
中国とアリゾナは(ヨーロッパから見た)世界の東の涯てと西の涯ての象徴として用いられている。しかしそれは、ニュージーランドとアラスカでもよいはずだ。なぜ中国とアリゾナなのか?【山崎氏新訳の註によれば、初期の草稿では「アリゾナ」ではなく「アメリカ」であるという】
サンテックスが南米で経験したように、強風に翻弄されて九死に一生を得た場合、現在位置を把握するためには、陸地の地形を判断するのがいちばん確実である。しかし当時の航空機の性能からいって、現在位置が中国・アリゾナ双方の可能性があることはあり得ない。無意味な比喩である。また、中国やアリゾナの全景を見渡せるわけもないから、「見分けがつく」のは、かなり部分的な地形のはずである。
|
CとAに挟まれているのはBである。これに何か謎解きの鍵があろうかといろいろ考えてみたが、答は得られない。「アリゾナ」が州の名でないとすれば、パールハーバーで沈座した戦艦アリゾナ号が考えられるが、意味づけは不可能であるし、「C」の方が何かが判らない。 サンテックスのやりくちから見て、ここには何かが隠されていると思った方がよいのだが、何を言おうとしているのか皆目見当もつかない。ねんごろになった女性でも住んでいるのだろうか? しかし、アリゾナはともかく中国には . . . ??? |
「夜間飛行中に一目で見分けがつく」。 この一文を筆にするとき、サンテックスの脳裏にはリビア砂漠での航法ミスによる遭難事故があったはずだ。雲(実は地上間近の霧)の中で現在位置を確かめようと高度を下げて、砂丘に激突したのだ。過ぎてしまった今となってはほろ苦い思い出。いや、それどころか、借金を返せるほどの飯の種(新聞に連載した体験記。後には、 Terre des Hommes の一節)になった。とはいえ、命があったのは全くの幸運。即死にせよ渇きによる野垂れ死ににせよ、あのとき死んでいて何の不思議もない事故だった。無線機さえ積んでいれば . . . 。
Chapter 2.
2-1 le mystère est trop impressionnant
Quan le mystère est trop impressionnant, on n'ose pas désobéir. あまり突拍子もないことには、逆らう気持ちが起きないものだ。
24章、バカバカしいと思いつつ、井戸を探しに出かける光景への伏線(もしくは対応関係にある)。
2-2 「羊を描いて」
"Dessine-moi un mouton . . ." 「羊を描いて」と王子はねだる。描いた3頭を次々に難癖つけて書き直しを要求する。理由の最初と最後は、「元気がない」と「齢をとっている」だ。2番目の理由は少し変わっている。描かれたのが "mouton" ではなく "bélier" だから嫌だというのである。
牧畜民族は、家畜の雌雄を区別して呼び、総称する名詞を持たないことが多い。たとえば、雌牛・雄牛を表す単語はあるが、両者を一括して表す「牛」に相当する単語はない。雄鶏・雌鶏についても同じである。
さらに、家畜の雄に関しては、積極的に去勢を行うことが多い。その方が扱いやすく危険がない上、肥育が早く肉質も異なるからである。当然、種オスと去勢オスは区別して呼ばれる。羊の場合、メスと去勢オスは "mouton"、去勢していない種オスは "bélier" である。
|
明治時代の日本は、日清戦争・北清事変(義和団の乱)・日露戦争と立て続けに大陸に出兵し、いろいろな意味で諸外国を驚かせました。短期間のうちに近代的な軍隊として立ち現れたのには目を見張りましたし、その精強さと士気の高さは、今後に恐れを残すものでした。機関銃陣地に向かって性懲りもなく突撃を繰り返し、いくつもの部隊を犬死・全滅させてしまうのはあきれ果てる無能な指揮ぶりでした。信じられない滑稽な事実も発見しました。「日本軍騎兵は犬みたいな馬に乗っている」「日本軍は去勢をしない軍馬を使っている」というのも、軍事関係者の間では驚きの目を持って語り伝えられたものです。「犬みたいな」というのは、日本の馬が小さかったからです。義経の機略を示すものとして有名な一ノ谷の逆落としでは、立ちすくんだ馬を(大事な財産なので、転げ落ちて死んだり、骨折されたりしては大変ですから)背負って斜面を降りた武者がいたと伝えられますし、勇猛を持って鳴る甲州騎馬軍団の馬もやはり道産子並みの大きさでした。その流れを脱却しきれない明治時代の日本軍は、「犬みたいな馬」(グレートデンと同じくらいだったのです)に乗って戦ったのです。 「去勢」に関しては、説明が必要でしょう。去勢しない牡馬は繁殖期には手がつけられない猛獣になるのです。それでなくとも、オス同士は争いがちです。軍馬には去勢オスを使うのが常識。明治時代になっても日本にはその常識がありませんでした。 |
王子は明確に "mouton" を描いて欲しいと要求している。制御できない暴れ者では困るから、"bélier" を忌避するのは、ある意味当然である。しかし、生殖能力を持つオスは困るといっている可能性もある。もちろん、羊は一頭だけだから、繁殖されては困るというわけではない。バラという女性がいる星へ、"bélier" をつれて帰るわけには行かないといっているのである。
そもそも「なぜヒツジなのか?」というのも、問題の一つである。草や若木を食べるという点では、ウサギでも同じ役割が期待できる。食べる量や扱いやすさの点では、ウサギの方が好都合である。飲料水もほとんど要らないし、排泄物もヒツジに較べれば随分少ない。話の都合上ウサギではまずいことがあるのだ。ウサギは、外見を一瞥しただけで雌雄を見分けることができないのである。
| サンテックスは知識不足だ。品種にも依る(角が無い/退化しつつある 品種もある)けれど、原則的に、ヒツジはメスにもツノがある。オスに較べれば小さくて目立たないだけである。 |
2-3 見棄てられた三匹のヒツジ
プリンスが星に連れ帰るのは(ヒツジ小屋に納まった)最後の一頭だけ。彼に拒否された三頭の命運はどうなったのか? 物語の中で言及されることは、もはやない。破いて捨てたか、さもなくば、「どこかで勝手に生きて行け」と打ち捨てられたかの、どちらかであろう。うち二頭のヒツジは、病気だったり、老齢だったりする哀れな存在であるにも関わらず、である。
実は、操縦士とプリンス以外の、あらゆる登場人物(?)がそうなのだ。役割を終えたらそれっきり。打ち捨てられて見向きもされない。わけても哀れなのは(「もし」と仮定付きの話ではあるけれど)、第13章に登場する「摘み取られて持って行かれる」一輪の花であろう。摘み取られた段階でもはや生きてはゆけぬ運命なのに、その後どう扱われたのかの言及すらないのだ。
ドリトル爆撃隊に志願したサンテックスの残虐さ(もしくは、生命軽視)が、本人の自覚しないところで顔を出していると見るべきであろう。
2-4 「1000 マイル:実在しない場所」
Le premier soir je me suis donc endormi sur le sable à mille milles de toute terre habité.
この“mille milles”が、正確に「千」マイルと言っているのではないことはすでに指摘した 。「ミル・ミル」と同じ音を繰り返すための語選びであることは論をまたない。しかし、それならば 500(cinq cents)キロメートルでも目的は達せられるし、事実、他の場面でこの音の繰り返しは用いられている。“mille milles”と“cinq cents kilomètre”では何が違うのか?
トーマス・モアの「ユートピア」が“どこにも実在しないところ”という意味であることはよく知られている。「人が住んでいる場所から 1000 マイルも離れたところ」はこのユートピア、つまり、実在しないのである。世界地図を広げて、半径 1600 キロメートル(海里ならば1850km)の円内に人里がない場所を探してみるがよい。ときは 1940 年代。辛うじて南極大陸がその条件を満たすのみで、残る5大陸のうちにそのような地点を求めることはできない。半径500キロメートルならば、条件を満たす場所はありうる。サンテックスは、当然そのことを知っていた。飛行機乗りである彼には、1000 マイルの遠さが、実体験を通して理解できていたに違いない。王子と出会ったこの地点、地球上に存在しないとサンテックスは示唆しているのだ。
| 2005年、新訳5種類がそろった。そのどれもが、「1000 マイル離れた場所」と直訳し、それが「ユートピア」であることを指摘していないのは驚くに値する。そんなことでは、サンテックスがそこかしこに仕掛けた騙し絵を見抜くことは覚束ないだろう。 |
Chapter 3.
3-1 「ということは、きみはそんなに遠くから来たわけじゃないんだ......。」
王子はじっと考え込んだ末に、ヒツジの絵を取り出してしみじみと眺める。何を「考え」、なぜヒツジの絵を取り出したのか?
「この飛行機で、B-612 へ帰れるかも!」王子はそう期待した。ならば、この身体を運んで貰える。しかし、その期待はすぐさま打ち砕かれる。星へ行けるような代物ではないのだ。「だめか」ため息をつきながら王子はヒツジの絵を取り出した。やはり身体は捨てて行かなければならない。だとしたら、バオバブの芽を摘んでくれるのはこのヒツジだけだ。バラの星を護ってやるためには、このヒツジだけが頼りなんだ.....。 たのむよ、ヒツジ君。
|
そもそも、この地点に飛行機を不時着するよう仕組んだのは王子ではないのか? ひとつには、ヒツジの絵を描かせるために。そしていまひとつには、あわよくばこの飛行機に便乗して B-612 へ帰る企みを抱いて . . . 。 さすれば、最後の夜に、飛行機の修理ができたことを知っていても何の不思議もない。故障を直したのは、操縦士ではなく王子なのだ。砂漠に井戸を出してみせたり、飛んでいる飛行機を意のままに故障させたり、王子は異世界仕込みの魔術を使うのでは? |
Chapter 4.
4-1 着てる服が服だというので . . . 。
サンテックスはここで、「おとな」に嘲られる代表としてトルコを挙げている。不用意かつ無礼な話である。他人への思い遣りという点に関しては、サンテックスはこの程度の人間でしかない(同様のことは他でも繰り返される)。
トルコは迷妄未開の民族ではない。大帝国を築いて中近東に覇を唱えた時期もあったし、トプカプ宮殿やブルーモスクを見ても明らかなように、高い文化を誇る国である。講演旅行でイスタンブールを訪れたことがあるサンテックスは、当然そのことを承知している。また、「おとな」が物笑いにしたがる服装は他にたくさんある。それなのになぜサンテックスは、トルコを持ち出したのだろう?
サンテックスは強烈なナショナリスト、むしろ右翼と呼んだ方がよい思想の持ち主であったことと関係がある。第一次世界大戦でトルコはドイツと結びフランスと敵対した。第2次世界大戦では中立を堅持して、度重なる連合国の参戦要請をはねつけ続けた(最終局面では連合国側に参加。日和見を決め込んだ訳である)。サンテックスはトルコが嫌いだったのだ。
嫌いと言えば、サンテックスは日本はもっと嫌いだった(ドゥリトルの東京空襲に義勇参加志願をしている)。笑い者にするのなら、チョンマゲ頭に羽織袴の日本人を出すほうが、トルコ服よりも効果的に思われる。そうしなかったのは、B-612 発見の栄誉を日本人に渡す気にはならなかったからだろう。
Chapter 5.
5-1 ヒツジが小さな木を食べる
ヒツジは草を食べる。木の芽を食べないわけではないが、好物ではない。それに反して、ヤギは草よりも木の芽や葉を好む。若いバオバブを退治するのに使うのならば、ヒツジよりもヤギを選ぶべきである。
5-2 土中に眠るタネ
土壌シードバンク。セイタカアワダチソウ等が有名。バオバブでは知られていない。
Chapter 6.
6-1 44回の入り陽
朝日と夕陽が1セットになって1日を区切るのが、大自然の摂理である。王子はこの当然のことわりに逆らって、一日に44回もの落日を作り出してしまう。気分が晴れないからという理由でである。この身勝手なやりくちは、子どもの頃のサンテックスの姿を彷彿とさせるものがある。自分専用の小さな椅子を引き摺って母親の後をついて回り、「お話」をせがんだ幼少の頃のサンテックスの姿が二重写しに浮かび上がる光景ではないか。
Chapter 7.
7-1 “Monsier cramoisi”
王子から「きのこ」と罵られる人物がいる。“Monsier cramoisi”“Monsier rouge”である。明らかに同一人物を指しているのに、ふたつに使い分けられているところは、用心しなければならない。特に後者は“gros Monsier rouge”と表現されている。(内藤 濯氏は「赤黒先生 」と訳しているが、これは論外なので、ここでは議論しない。)
“cramoisi”を辞書で調べると、ふたつの意味しか出てこない。原義である「深紅色(の)」と、それから派生した「顔が赤い」の二通りである。“rouge”も「赤」が原義だが、こちらの方は派生義が多い。「紅潮した顔色の」という意味も、また(通常赤毛は poil de carotte だが)、rouge に「赤毛の」を加えている辞書もある。いうまでもないことだが、左翼/社会主義/共産主義といった意味もある。
一般的には「赤ら顔」と解して、後で出て来る「ビジネスマン」に当てることが多い。事実、挿絵は頬が赤く大柄である。計算ばかりしている点もぴったり来る。この「ビジネスマン」はアメリカ人のアレゴリーであるとして、アメリカでは The Little Prince は反感を買った。
“rouge”を単純に考えない方がよいと思う。ナチスの腕章も、社会主義を象徴する赤旗も、“rouge”である。ともにサンテックスは嫌悪感を抱いていた。社会主義は計画経済であるから「計算ばかりしている」という条件を満たす。ソ連は大国、すなわち“gros”である。Le Petit Prince が書かれたのはニューヨーク。ドイツと敵対するという意味では同盟国であるが、日本とは不可侵条約を守って(日本の方も日独伊三国同盟に反して)中立を保つという一筋縄では行かない国でもあった。ドイツが片づいた後は主要仮想敵国になると、アメリカが覚悟を決めていた時代である。
7-2 きのこ
“champignon”は果たして「きのこ」だろうか? (日本語訳に関しては「 きのこ 」参照。)
ヨーロッパで赤いきのこといえば、ベニテングタケが代表格である。こびとの家としておとぎ話に出て来たりする。ニューヨークのセントラルパークにも出るという。ごく普通に目にとまり、子供達には人気がある。サンテックスが「赤いキノコ」としてイメージに描くのはこのベニテングタケだろう。色には変異があり、オレンジ色や黄色の仲間もある。成長すると茎が伸び、傘は水平か軽く反転するほどに開く。有名な毒キノコであるが、誰でも知っているから、食べて中毒する人はいない。したがって、毒があるからといって嫌われているわけでもない。「赤キノコ!」と罵られたという話は聞いたことがない。 西日本に住んでいる人は見たことがないだろう。日本にも生育するが、東日本の比較的寒冷な地域に限られる。普通は食べないが、地域によっては、毒抜きをして食用にするという。コクがあって旨く、ハマッテシマウ味なのだそうである。 |
植物学的には「キノコ」という分類単位はない。ツクシがスギナの生殖体であることはよく知られている。同じように、菌糸が集まって胞子を作るための構造体を作ったもののうち、目に見えるほど大きく、地表や樹表から立ち上がっているものを「きのこ」と呼ぶ。薬用や食用にすることが多い。フランスでは、キノコだけでなく、その本体であるカビも“champignon”である。罵りに使うとしたら、「きのこ」ではなく「カビ」である可能性が強い。
![]() |
7-3 壊れはじめたサンテックス
逆上した王子は言いつのる。「花の香りを嗅いだこともない。星を眺めたこともない。. . . . . 『俺は重要人物なんだ』とばかり言っている。. . . 」「そんなの人間じゃなくって、シャンピニオンなんだ!」 珍しくも王子が、あからさまに人を罵る場面である。しかし、作者にこれを言わせる資格があるのだろうか。
瓦・タイル製造会社の事務員として1年間、「計算ばかりをして」給料を貰い続けたのではなかったか? トラックのセールスマンとして務めながら、1年半で僅か1台のトラックしか売りさばけなかったのではなかったのか? 貰った給料に見合うだけの「まじめ」な仕事ぶりだったと言えるのか? ちょっと目を離すとすぐに瞑想状態に陥って、役に立たない給料泥棒だったのは誰なんだ?
「夜間飛行」の主人公「リヴィエール」のモデルとされるディディエ・ドーラは、まさにこの無骨な計算屋の典型ではないのか? サンテックスは彼を尊敬していたはずでは?「赤ら顔」と表現したからと言って、ドーラを除外する言い訳にはなるまい。大恩あるドーラに泥を浴びせるような言動ではないか。
我々は現実の世界の中で生きている。農民であれ商人であれ、はたまた経営者であれサラリーマンであれ、のんべんだらりと生き抜けるわけではない。まじめに、必至に働かなければならないのだ。王子にしてからが、自分の星では「まじめ」に日課をこなしていたはずだ。空を見上げる暇もないほど忙しく立ち働くどこが悪いというのか。愛する人々のもとへ生還するためには、必死になって壊れたエンジンを直さなくてはならない。その作業を邪魔した上、夢想と現実をミックスアップして訳のわからないことを言い立てているのは王子の方である。注意散漫を非難され続けたサンテックスが、童話に名を借りて倒錯した復讐を試みる。これは落伍者がする自己弁護の居直りである。王子の主張もまた、身勝手きわまる。尋ねられたことには返事もせず、自分の質問には気に入った返事を強要する。望まない返事には逆上して、己の考えを押しつけようというのだから、まともではない。この部分、「大切」だと思い込んだことのために自らを死地に追いやろうとする、晩年のサンテックスが顔を出している。
7-4 トゲをつけるわけ:知る必要などない
花が「苦労してトゲをつける理由を知る」ことなど重要ではない。何のためにそんなことを知ろうとするのか。そして、知ってどうなるというのか。
他人の質問には答えないくせに、自分が発した問いがぞんざいに扱われたことに逆上し、愚にもつかない因縁をつけて黒を白と言いくるめようとしているのだ。
|
|
|
|
|
|
|
| |
|
文学作品の鑑賞に科学的解説は野暮というものだが、「トゲが何の役にも立っていない」というのは誤りである。 硬いトゲに守られた茎を食する中型・大型の動物はいない。トゲだらけのハマナスやノイバラの群落、そして、乾燥地に木立となるアカシアの類ではっきりするように、有刺植物は堅固なバリケードとして大きな動物の接近・進入を許さない。トゲは立派に役立っているのだ。【棘だらけのアカシア類の葉を食べるキリンは、まだ棘が柔らかな新しい枝葉を選んで食べている。鋭く硬い棘を意に介さないわけではない。】
![]()
百万年も前から*トゲを作ってきた植物は、それによってちゃんと身を守っている。トゲがありながら花や葉を守れないのは、人間に「飼い慣らされ」、姿形を見せびらかすために孤立している園芸品種だからである。
|
|
激昂した王子が支離滅裂な論法を振り回し、やくざな語気に気おされて操縦士が謝ってしまうと言うメチャクチャな展開だが、この章は、王子に対する操縦士の気持ちが決定的になるという重要な部分である。
詭弁を弄して主張を押し通そうとするこの点では、バラと王子の関係が、王子と操縦士のあいだがらとして再現されている。 |
Chapter 8.
8-1 ヒナゲシ達のように皺くちゃの姿で。toute fripée comme les coquelicots
![]() 開花を開始した蕾(左)と 開花直後の花(右) |
ヒナゲシに限らず、ケシの花は、薄くて大きめの花弁を小さな蕾に折りたたんでいるから、咲き始めは皺くちゃである。蝶やトンボの翅と同じで、液圧によってみるみるうちに伸展し、シャンと張った花びらになる。
南ヨーロッパでコクリコは、至る所にはびこる、ごく普通の雑草。色変わりの園芸品種が出回っているが「(フランスの)三色旗の赤」と表現されるのが本来の色で、春になると一斉に咲き揃って、原野を真っ赤に染める。
待宵草の一種 |
![]() バラの花弁は厚く、蕾の中で巻き固められている。
![]() 咲き始めてもクシャクシャにはなっていない。
|
8-2 太陽と一緒に : 謙虚とは言えない
朝日と共に生まれ出るのがなぜ「謙虚でない」のか、解りかねる人も多かろう。
エジプト新王国やギリシャ神話の例を持ち出すまでもなく、太陽信仰はどの民族も持っている。すなわち「神」と太陽は同義語である。更に、帝王は神と一体もしくはそれから任命された存在であり、太陽であった。多くの帝王は臣下が居並ぶ中を日出と共に来臨し、朝儀(まつりごと)を始めるのである。「太陽と共に生まれた」のが不遜であるのは、神や帝王と同列であると主張しているからに他ならない。【それまで Petit Prince は星の(唯一の)支配者であった】
第2回遣隋使(607年。小野妹子や、虚実不明である「聖徳太子」で有名)の国書で「日出處天子致書日没處天子」(天子が2人!)と言い放ち、煬帝が「帝覧之不悦」「勿復以聞」と激怒することとなる。この怒りは、「国書」が不遜であるからに他ならない。
サンテックスは一応キリスト教を信仰しているから、太陽は神と一体ではない。しかし、太陽が特別な存在であることは疑いもなく、それと同列に我が身をなぞらえるのが不遜であることに変わりはない。
8-3 この星へはタネとしてやって来たのでした。ですから、もと居た星のことなんて知っているはずがないのです。
この一文は、『タネは赤ん坊のように(あるいは卵子のように?)未発達な存在だから、記憶を維持することができない』といっているわけではない。そもそも植物であるバラの記憶システムとして神経系を想定することには無理があるから、その発達程度を記憶の有無と結びつけること自体無意味である。「タネ」は、未発達な存在として描かれているわけではない。
このタネと記憶のくだりは、物語の最終段、王子の屍体が残らなかったことの説明/解釈に極めて重要な伏線となるのだが、日本人には理解し難い点があり、読み過ごす人が多い。
多くの東洋人の感覚では、バラの種も、それが芽吹いて生長したバラの木も、ひとつながりの生命体であって、別の個体とは考えない。それどころか、元来は別の生命体である冬虫夏草のようなものまで、同一の個体と考える傾向がある。もっと凄いのは、チベット仏教のダライラマのように、特定の生命が時空を超えて再生し、その証しとして前世の記憶を保持していることを示したりする。形の変化に重きを置かない輪廻転生思想が、魂を生命の本質と見なすからである。
対して、中東以西には別の生命観が支配する。たとえば、エジプトのミイラは、還ってきた魂が「自分の体」を見つけられなければ復活できないから、肉体を保存しておかねばならないのである。形が変わってしまえば、それは別の生命体。それに付随する記憶も拭い去られ、綺麗さっぱり別物として再出発する。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば. . . . . 。 ・・・・・ 自分の生命を惜しむ者はこれを失い、この世でその生命に執着しない者はこれを永遠の生命のために保つであろう。」*【ヨハネ福音書 12-24。】。日本人には到底理解できない発想法である。生きていればこそ芽を吹くのであって、死んでしまったら花開き実を結ぶことなぞ望みようもない。しかし、それではこの言葉は意味を持ち得ない。
| * 多くの日本語訳聖書は、「惜しむ」を「愛する」,「執着しない」を「憎む」としているが、日本語として変なので、このように訳し直した。 |
キリスト教に対する信仰心は捨てたといわれるサンテックスだが、肉体と魂の不離性に関しては、上記の西洋型思想を色濃く残しており、Le Petit Prince を読み解くうえでも重要な鍵を握っている。死と肉体に関する考え方に関しては、この点を明確におさえておかないと、王子が肉体を保持して星へ帰ったのか捨てていったのか、の違いの重要性が理解できない。
|
園芸品店・種苗店へ行って「バラの種」を探しても、まず見つからない。あるのは苗ばかりである。逆に、薬屋や健康食品店で探せば、“ rose hips ”という「バラの実」が見つかるはずだ。これは、ドッグローズ Rosa canina をはじめとする、rose hips 生産用の栽培品種から採ったものが多い。それ以外に(ハマナス等も含めて)野外で採取したバラの実も出回っている。
サンテックスが描いた「バラ」は、八重咲きである。タネはできないし、これが「タネ」として何処かからやってくることもあり得ない。そんなこと、サンテックスは重々承知していた筈だ *。1000 マイルと同じく、「この世に存在するはずのない」キャラクターを登場させたのだ。 ![]() 盛りは過ぎた。あとは散るのを待つばかり。
本文中では、朝日と共に花開いた若々しいバラに思われる。しかし、挿絵は違う。サンテックスが描いたのは、あふれるばかりに花弁を開いた、明らかに、もう盛りを過ぎて、若くはないバラの花だ。それかあらぬか、男を翻弄する手練手管に長けている。【擬人化して花冠を顔に見せるため、軸頭に一花を咲かせているが、人為的な剪定を受けない限り、一株に花が一つだけということはまずない。】 |
8-4 僕の花は、星中にいい香りを漂わせていた。
このくだりに embaumait は2度繰り返される。最初の目的語は「僕の星」、その主語は la mienne 「僕のもの」である。そのすぐ前に「花の言うことなんか聞いちゃいけなかったんだ」という言葉があり、その「花」les fleurs は複数形となっている。聞き流すべきなのは一般論としての世の中の花の言い分。星中にいい香りを漂わせたのは、「僕の大切なあの花」である。
次の段落に Elle m'embaumet et m'eclairait. と出てくる。「僕を何ともいえない気持ちにさせ、晴れ晴れとした気分にしてくれた* 」と言うことである。いたたまれず、星を捨てる原因になった相手に対する評価が、ここでは積極的にプラスの評価に変わっていることが判るだろう。
|
* すでに指摘した“Yuo are my sunshine”を思い出して欲しい。
|
「バラが香るのは当たり前」と読み流してはならない。ヨーロッパの、かつて豊かさを経験したことがある都市や、植民地としてその影響を強く受けた世界各地の都市を訪れて、街角で女性とすれ違えば、必ずと言ってよいほど、香水やオーデコロンの香りをかぐことになる。それぞれの個性を、強く、あるいはさりげなく主張する香りである。すれ違って香りを嗅ぐことがないと、肩すかしを食わされたような軽い落胆の気持ちを味あわされる。向こうからやってくる姿を見て、無意識のうちに、その女性のフレグランスを想像し期待しているからである。それほどまでに女性と香料との関わりは密接で、身だしなみの一つというべきものになっている。
最近でこそ香水の香りはどんどん薄くなり、「知的」と呼ばれる女性の間では香水をつけないことも多くなった(耳朶に穴を開けたりもけっしてしない)が、サンテックスの時代はそうではない。香水を買えない階層の女性を除けば、女性と香料は切り離すことができない間柄なのである。香水は注文するか、自らの好みにしたがって各種の香水を混ぜ合わせるかして、自分だけの香りを創り出す。平安時代の公達がそうであったように、漂わせる香りは、その女性の品性を表す重要な採点対象の一つであった。ここでは、捨ててしまったバラの存在が、香りにこと寄せて再評価されているのである。
バラが香りを漂わす女性であることに注意して欲しい。「バラはフランスのメタファーである」という主張があるが、私は賛成しない。ここに述べたような小さなことを一つ一つ積み重ねて行くと、バラはサンテックスと関わりを持った実在の女性以外ではあり得ないという結論に到達するのである。【サンテグジュペリ一族はゴリゴリの王党派だった。サンテックス自身も右翼だった。フランスのメタファーならば、ユリにした筈(バラは英国の国花である。フランスの国花はユリ)】

|
ニューヨークの劇場舞台で演じられた The Little Prince の紹介イメージ画像。操縦士・バラ・プリンスが描かれている。バラがセックスアピールを振りまく存在であることに注目。 女性を花に、花を女性に見立てる発想は、古今東西を通じて珍しいものではない。Le Petit Prince の『バラ』が妖艶な女性であることは、本文からも明白であり、モデルが存在するならば、その筆頭は彼の周りに実在した女性であると見なければならない。 |
(コンスエロやルイーズ・ド・ヴィルモランが、そしてあのB夫人が、当時どんな香水を用いていたのかは、知りたいことの一つである。サンテックスが家を飛び出した頃のコンスエロは、バラをモチーフにした香水を使っていたのではないだろうか?)
| 実は、リヨン・サンテグジュペリ・センターのリケルミ氏に、コンスエロの香水について尋ねたことがありました。同行した人が「薔薇の香りに決まっている」と口を出したので、せっかくの機会がオジャンになってしまいました【インタビューに際して、こちらから答えを示したり、示唆したりすることは、「誘導尋問」と呼ばれる初歩的なタブーです】。この後同じ質問をすることは無意味で、せっかく作ったチャンスを駄目にされて顔をしかめたのですが、リケルミ氏は「憶えていないが、そう(薔薇の香り)だったかも知れない」という返事でしたから、質問は空振りだったわけです。 |
8-5 4つのトゲ
「バラはフランスのメタファーである」という主張に私は賛成しないけれど、それでは、コンスエロを脅かすトラとはいったい何なのかと問われると、答えられない。バラがフランスならば、候補がある。ドイツが誇る無敵の6号戦車、ティーゲルである。
|
この時期、王虎 Königstiger と呼ばれたヒトラーお気に入りの II 型は、まだ戦場に姿を見せていない。Le Petit Prince 執筆時期に実戦配備されていたのは I 型である【初陣は1942年8月29日、レニングラード戦線に4輛が投入された。1943年2月13日のアフリカ戦線では第5装甲軍の主戦力として、物量に勝るアメリカ軍第1機甲師団を相手に戦車150輛を撃破する猛威を振るった】。II 型より軽量(I 型:57トン, II 型:70トン)とはいえ、接近戦ですらその前面装甲を打ち抜かれたことはなく、2km の遠方からあらゆる戦車の装甲を打ち抜く強力な 88mm 砲(高射砲を戦車砲に改装。56口径の長身)と相俟って、世界最強のタンクであった。鈍重で長距離の機動戦にはむかなかったが、列車その他のトランスポーターで運ばれて最前線に投入され、ソ連や連合軍の戦車をなぎ倒した。配備車輌数は多くはなく、故障に悩まされはしたが、たった数輌で敵戦車部隊を全滅に追い込む実力があり、連合軍兵士にティーゲル恐怖症を引き起こした。終戦までに、敵戦車撃破100輌以上(最高168輌)の戦績を持つ戦車長10名以上を輩出し、フランスの命脈を断つ「トラ」であった。
![]()
|
|
美しいバラにはトゲがある。 ![]() 交配を繰り返せば、トゲのないバラを作り出すことは可能だったろう。しかし、そのような努力はなされなかった。もしくは、作出に成功しても、その作品は支持を得られずに消えていった。なぜならば、「トゲの風情」もまた、バラの美しさを決める評価ポイントの一つなのだ。【トゲが少ない品種は存在する】 ![]() トゲは葉が変化したもの。蛇足ながら、バラの葉は「奇数羽状複葉」と言い、5枚に見えるのが1単位の「葉」である。 |
Chapter 10.
10-1 星巡りの始まり
第10章から「星巡り」が始まる。解説者の多くはこの「星巡り」を過大評価し、社会に存在するいろいろな人をカリカチュアライズしたものと説く。そうだろうか? 私には、ごく当たり前の描写にしか見えない。
最初に現れる「王」からしてそうである。「王」をはじめとして、政治指導者の殆どは、既成事実を追認する事が多かった。それが、余計な摩擦を起こさず、事故の政治生命を全うするための良策であったからである。
|
内閣も天皇制も、起こってしまったことに対しては、事後承認の一手が最も普遍的、かつ、有効な政治手段だったのである。 |
この章で描かれる「王」は、将にその通りの哲学を押し通す。カリカチュアなどではない。現実描写そのものである。
Chapter 14.
14-1 街 灯
本文からは判らないが、挿絵を見ると「ガス灯」であることは明白である。
|
電灯の最初は炭アーク灯で,1808年デービーによって発明されたが,まぶしいのと,炭素蒸気を出して空気を汚すので,もっぱら街路灯に使用された。1876年ロシアのヤブロチコフが実用化してパリの街路を照明した(グラム発電機を使用)。 1882年、第一回国際電気博覧会がミュンヘンのガラス宮殿で開催された。57キロ離れたミュンヘン近郊のミースバッハにフランス人技師Marcel Deprezによって設置された発電機から2本の電線がガラス宮殿に繋げられ、ここに世界で初めての実用電線が引かれると共に、ミュンヘン初の電気による街灯が設置された【ミュンヘンの電化はガス会社の独占運営のため遅れたが、郊外のシュヴァービングは80年代に既に街灯が電化されていた】。ミュンヘン市内では例外的に、1883年5月、レジデンツ劇場劇場内に766個の白熱電球が取り付けられた。 世界初の水力発電所はフランスに、1876年に設置された。1879年にナイアガラの滝に水力発電所が建設され、1881年には水力発電によって作られた電気がナイアガラ・フォールズ市の街灯用に供給された【翌年には、世界初の本格的水力発電所がアメリカウィスコンシン州のアップルトンで稼働した】。 世界初の火力発電所は1881年アメリカに設置。【この年、世界初の海洋温度差発電所が1881年、フランス(ダルソンバール)に設置されている】 |
14-3 仕方ないね
点灯夫は灯台守のように灯りを操作し続ける。永遠に続く罪業のようにである。王子はこの点灯夫にプラスの評価を与えている。人の役にたつ(ことがあるかも知れない)からである。
このような仕儀になった理由は、星の回転が速まったから、すなわち、自然現象であって、点灯夫に責任はないように読める。しかし私には、ハロウィンのカボチャにまつわる伝説:石炭の火を灯したカブを手に、地獄門と現世門の闇をさまようランタンジャック(Jack-'o-Lantern)を思い起こさせる。“pas de chance”という言葉の裏には、この運命の元となった行いが秘められているのではなかろうか。
日本語では「起きて半畳、寝て一畳」という。ヒトがその体躯で占拠する空間は小さなものだ、という意味である。
|
|
似たような考えが Le Petit Prince にも出てくる。
Si les deux milliards d'habitants . . . . . . . de vingt milles de long sur vingt milles de large.
多くの人が指摘する「20億人という数値は、当時の全人口にほぼ等しい」というのは、あまり正確ではない。【20億人に達したのは1927年】
|
|
とはいえ、これは現在の知識の話。1940年代にはこのことは知られてはいなかったし、戸籍がない国も多いのだから、どうせ世界の人口動態を正確に把握することはできない。サンテックスは「科学的」な数字だと信じていた可能性が高い。だとしたら「20億人の住民」に冠せられた “les” という定冠詞は、単なる習慣上の冠詞以上の意味を持つことになる。すなわち、20億は仮定の数値ではなく、実在の人口であると暗に示唆しているのだ。サンテックスの知識ひけらかし癖が、ここにも顔を出していると見なければならない。では、縦・横 20 マイルに詰め込んだ 20億人 ひとり当たりの専有面積はどれくらいになるのだろう?【野暮は承知の上。Le Petit Prince 中での記述とは裏腹に、サンテックスはこの種の数字遊びが大好きだった】
20 億は、20 × 108 である。これを正方形に並べれば、その一辺は √