| 藤津亮太の「只今徐行運転中」:『星の王子さま』について。 | 「取り替え可能性」をキーワードに、「おとなの世界」「こどもの世界」そして、キツネやバラをはじめとする登場者たちを見つめ直す視線。 |
| 畑中泰道の院試塾ブログ:本を閉じたあとに何かが残る。 | 参照する資料が二つだけと少なすぎ、偶然見つけた題材(日本語で書かれた書物。著者自身はフランス語ができないよう、つまりは受け売り)を基に書き散らした感が残るのが不満だが、“apprivoiser”に関する“素人的”な意見として希少な存在。【他に、『星の王子さま』と友情】 |
| 「永遠の少年」考:—サン=テグジュペリ「星の王子様」論—。 | 浩瀚なエッセイ集の一端(?)。素直な解釈。ヒツジはキリスト(筆者はキリスト者なのか、イエスとキリストを同義語としている)ではあり得ないのだが、筆者はそう断言する。ただし、この後それに言及しない。ヒツジにバオバブを食べさせるのは「毒をもって毒を制す」ことだという類の記述に、著者の「見えない蓄積」を感じさせる。【ただし、事実関係は間違いだらけ。そのつもりで読んで下さい。】 |
| 上野 瞭:『星の王子さま』に関する覚書 サン・テグュジュペリについて(1)。 | 『私の児童文学ノート』(上野瞭 理論社 1970)テキスト。【同(2)】 |
| 菅原 秀:星の王子さまの涙(1)。 | 他人の著書を引用する形をとってはいるが、著者の視点の鋭さを彷彿とさせる。【愛の重圧を知った涙(2):担任教師は偏見だが、浅利校長もまた偏見であることの指摘がかけている。この筆者の限界か。】 |
| 橋本 裕:「星の王子さま」の旅 | 実に浩瀚なサイトの一部分(?)。この項に関する限り、参照する価値のない文献も複数ある。「彼が『星の王子さま』を書き上げた後、フランスにいる妻コンスエロにあてて書いた手紙の一節である。」は史実に即さない誤り。 |
| 大野 美保: 第4章 異文化理解を可能にする理想的文学体験『星の王子さま』を1例に ( 芸術的想像力による異文化理解 — 言語芸術の1要素である文学を1例に — 〔2001年愛知淑徳大学大学院 修士論文〕の第4章) | 問題は山積する。第4章に限って言えば、本人による翻訳も散見するが、英語訳から(つまり、他人の解釈を介して)訳していると思われ、正鵠を得ていない点が認められる。また(第4章も含めて、文化系論文・宗教的論法に多く見られる欠点なのだが)、個人的な解釈と普遍的な「理解」との間を、恣意的に行き来する点が目につく。押し殺した感情表現の噴出以外なにものでもないピカソの「ゲルニカ」を「調和」のイメージであると言ったり、所詮個人的な「理解」(つまり「パロール」)しかあり得ないものを、全人類的な「理解」(「ラング」)にすり替えたりといった、誤魔化しが多出する。ヴィトゲンシュタインの言葉を借りるならば「論理学はトートロジー(同義語反復)に過ぎない」道具としての「言葉」を、深層意識下の(個人的な)共感にすり替えた上、人類全体の「理解」に敷衍してしまうと言う飛躍が頻出する。 レヴィ・ストロースの構造主義の説明もそうであるし、古典古代(ギリシャ・ローマ時代)に始まっている西洋人優先主義的思想(e.g. バルバロイという表現)を勝手にルネッサンスに措定する様な立ち位置が、牽強付会な論法を象徴している。「言語」と「芸術一般」との曖昧さもその一つである。 かくして、納得の得られないままに結論が導き出され、「神秘主義的な」文章の羅列と化してしまうのである。重ねて強調して置くが、個人的な共感は所詮個人にとどまるのであって、万人の理解へと深化はしない。「異文化理解」が、西洋とそれ以外であろうと、地球人と宇宙人のそれであろうと、この論文によって問題が解決されているようには見えないのである。 |
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